杏仁豆腐
杏仁豆腐(中国語:シンレンドウフ―/日本語:あんにんどうふ)は、中国を起源する薬膳料理、およびデザート(甜品:ティエンピン)である。
中国
概要
杏仁豆腐は、中国の首都である北京の伝統的なデザート料理で、満漢全席にも登場する。 主に、杏仁の中でも苦味が少ない「甜杏仁」(テンキョウニン)を粉砕し、水で煮た後、冷やして切り分けたもので、豆腐に似ていることからこの名がついた。 ただし、杏仁豆腐は地方によって作り方が異なる。
杏仁は、アンズの果実の核(種子の仁)で、タンパク質が20%含まれ、デンプンは含まれていない。 中国では、甜杏仁は滋養強壮、肺の機能を高める作用があるとされる。 杏仁を正しく摂取することで、滋養強壮や喉の渇きを癒す、肺を潤して喘息を緩和する、腸を滑らかにし、腸ガンを抑制するなどの効果が得られるとされる。 しかし、主に食用とされる甜杏仁であっても、薬用とされる苦杏仁(クキョウニン)であっても、過剰摂取は杏仁に含まれる青酸配糖体(アミグダリン)による中毒を引き起こす原因となるため、水に数回浸して加熱・煮沸してから摂取する必要がある。
歴史
杏仁豆腐の起源は、三国時代にさかのぼる。 その時代、董奉(とうほう)という名医がいた。 董奉は三国時代には、張仲景として知られる張機(ちょうき:150年 - 219年)、華佗(かだ:145年 - 208年)とならぶ名医で、漢代には「建安三神医」(建安三神醫)と形容された。
董奉は医術に長けていたが、貧しい患者からは治療費を取ることはせず、その代りに重病から完治した患者にはアンズの苗木を5株、軽度の患者には1株を植えてもらったという。 彼らによって植えられた苗は立派なアンズの林となり、のちに人間的にも優れた名医を「杏林」と呼ぶようになった。 董奉を称えて建てられた像は多く見られる。
その後、杏仁は変遷を経て杏仁豆腐として宮廷に伝わり、満漢全席で有名な甘味料理となったのである。
この董奉の伝承は、東晋時代(317年 - 420年)の学者である葛洪(かつこう:283年 - 343年)が著した中国の仙人の伝記集『神仙伝』(神仙傳)に記されている。 この故事にちなみ、中国では「董仙杏林」の名を冠した病院が多い。 日本では、杏林製薬(東証1部)、杏林大学(東京都三鷹市)などがある。
日本では国語で「故事成語」(例:矛盾・蛇足・五十歩百歩・四面楚歌など)を学習するが、故事成語の「杏林」(きょうりん)とは、名医の美称、代名詞である。
杏仁の種類
中国では「甜杏仁」(テンキョウニン)と「苦杏仁」(クキョウニン)に分類される。
これらの杏仁は、広東省や台湾では、南杏、北杏と呼ばれ、一般に甜杏仁は「南杏」、苦杏仁は「北杏」と呼ばれる。 香港では、この二つを合わせて「南北杏」とよばれるが、香港の漢方薬局では南杏を主とし、それに対して北杏は少量の割合で販売されている。
一般的に、甜杏仁は食用、苦杏仁は薬用に用いられる。
甜杏仁
甜杏仁は、主に河北省、北京市、山東省で生産され、その他、陝西省、四川省、内モンゴル自治区、甘粛省、新疆ウイグル自治区、山西省、中国東北部でも生産されている。
苦杏仁
苦杏仁は、低山地や丘陵地の山間部で栽培されている。 主に中国北部の3地域(中国北部、中国北東部、中国北西部)で生産されており、内モンゴル自治区、吉林省、遼寧省、河北省、山西省、陝西省が最も一般的で、その中でも河北省承徳市の平泉県(へいせんけん)は中国最大の生産地である。
効能
杏仁は、咳止め、抗喘息、人間の免疫力の強化、老化の遅延、血中脂質の調整、大脳への栄養補給、知能の向上などの薬効があるとされる。 また、杏仁に含まれるアミグダリンは、がん細胞を抑制・死滅させる作用があると考えられている。
甜杏仁
甜杏仁は、中国では一般的に食用として利用される。 ナッツ類(堅果)として食したり、杏仁霜などの加工食品や杏仁露などの飲料の原料にも使用される。 原料となるアンズは産地によってブランド名や俗称はあるが、大扁アンズ(大扁杏:ダーピエンシン/学名:Prunus armeniaca Linn.)を原料し、果実は生食も可能である。 大扁アンズは、たんぱく質、脂質、糖質、カロチン、ビタミンB群、ビタミンC、ビタミンP、カルシウム、リン、鉄などの栄養素が豊富に含まれており、カロチンの含有量は果物の中ではマンゴーに次いで多く、抗がんフルーツ(抗癌之果)とも呼ばれている。
大扁アンズから採取される甜杏仁は、いわば抗がんナッツ(抗癌堅果)であり、不飽和脂肪酸が豊富でコレステロールを下げる効果があるため、心血管疾患・循環器系の病気の予防や治療に良いとされている。 漢方医学の理論では、喉の渇きを癒し、肺を潤す効果があり、肺の乾燥や喘息の患者の健康管理・治療に使われている。
苦杏仁
苦杏仁は、中国では一般的に漢方薬として利用される。
中国薬局方(中華人民共和国薬典)の規定では、ホンアンズ(杏:シン/学名:Prunus armeniaca L.)と変種のアンズ(学名:Prunus armeniaca L. var. ansu Maxim.)、モウコアンズ(山杏:シャンシン/学名:Prunus sibirica L.)、マンシュウアンズ(东北杏:ドンベイシン/学名:Prunus mandshurica (Maxim.) Koehne)を原料とする。
苦杏仁は、降气止咳平喘(上った気を下げて咳や喘息を和らげる)、润肠通便(体液の老化、産後の血液不足、熱性疾患による体液の枯渇および失血によって引き起こされる便秘)などに良いとされる。 また、呼吸中枢に一定の抑制効果をもたらし、空咳とよばれる痰を伴わない乾いた咳、肺疾患の慢性的な咳を緩和する効果がある。
文献
- 名医别录
- 孙思邈
- 本草拾遗
- 养性要钞
- 本草图经
本草图经は、宋代(1061年)に、蘇頌(そしょう:1020年12月16日 - 1101年6月18日)によって編纂された書物である。
杏核仁は今日どこでも見かける。 実はいくつか種類があるのだが、黄色くて丸いものを「金杏」と呼ぶ。 伝承によると、済南郡の分流山で栽培され、人々からは「帝杏」と呼ばれ、今日では多くの種類があり、熟すのが最も早い。 扁平で緑がかった黄色のものは「木杏」と呼ばれ、酢のような味がして、金杏には及ばない。 杏子は薬として使われるが、現在では東方のものが最も優れており、本国で栽培されたものが今も使われている。 山杏は薬に適さない。 5月に収穫され、種を割って二つの仁を取り出す。
- 圆明园四十景图
圆明园四十景图は、現在の北京に清代に築かれた円明園(えんめいえん)の景観を描いた絵画集である。 1744年、清の第6代皇帝である乾隆帝(けんりゅうてい)の勅命により、宮廷画家の沈源と唐岱、書家の汪由敦によって40枚が制作された。 それぞれに汪由敦が書いた「四十景詩」が添えられている。 この絵画集は、1860年にフランス軍とイギリス軍によって略奪され、フランス皇帝ナポレオン3世に献上された。 現在はフランス国立図書館に収蔵されており、破壊される以前の円明園の様子を伝える貴重な記録となっている。 描かれた絵画の40枚のうち、24枚は1860年の破壊で消失し、残りの絵画も経年の劣化により失われつつある。 その内の一つに、庭園に開花したアンズの木々を描いた「杏花春馆」がある。
ブラマンジェ
ブラマンジェという語源は古フランス語に由来し、起源は中世初期(西暦476年~1000年)にアラブの商人がのヨーロッパに米とアーモンドを持ち込んだことに由来し、歴史と共に進化したとされてるが、19世紀にフレンチのデザートとして最終的に確立したブランマンジェはそれとは異なる。
フランス人シェフでイギリスでも活躍したオーギュスト・エスコフィエの著書『LE GUIDE CULINAIRE』(1903年刊行)に記されている「ブランマンジェ・ア・ラ・フランセーズ」(Blanc-manger à la Française:フランス風ブランマンジェ)は、中国の杏仁豆腐と非常に近い。
材料は、スイートアーモンド(甘扁桃仁)とビターアーモンド(苦扁桃仁)を砕いて布で絞ったもの、水、角砂糖、ゼラチンである。
歴史的背景
1840年5月、清国(中国)はイギリスとアヘン戦争となり、1842年8月29日に「南京条約」が締結された。 この条約は、福州、厦門、寧波、上海のあわせて5つの開港、香港島を割譲など、中国にとって極めて不利な不平等条約であった。 1856年には、不平等条約である南京条約を拡大した「天津条約」をイギリス・フランス・ロシア・アメリカの4カ国が結ぼうとし、それに対し清国が拒否したため、さらに第二次アヘン戦争ともいわれるアロー戦争が起こり、1860年にはフランス軍とイギリス軍が清国の首都である北京を攻撃し占領した。 この時に円明園も徹底的に破壊され廃墟となった。 それにより、天津条約に加え、新たな内容を加えた「北京条約」が締結されたのである。 これはのちの「洋務運動」へ繋がり、明治時代・中期に多くの中国人留学生が日本へ渡ってきた。
杏仁豆腐
多様性
- 燕窝汤:燕の巣のスープ。 海ツバメの巣、南北杏(甜杏仁と苦杏仁)、花旗参(ウコギ科:アメリカニンジン)を主原料とした薬膳料理。 塩味の場合は鶏清湯スープ(鸡清汤)、きのこスープ(蘑菇清汤)がベースになる。 デザートの場合にはココナッツミルク、牛乳(鲜奶)、杏仁汁、氷砂糖水(冰糖水)などが使われる。
- 杏仁银耳汤:シロキクラゲ(银耳)、南北杏(甜杏仁と苦杏仁)を使った薬膳料理。 楊貴妃や西太后が好んだクコの実、ナツメヤシ、百合根、蓮の実などを加えるのも一般的である。 デザートの場合にはユキナシやマンゴーなどの果物が加えられる。 シロキクラゲは古くから王朝の王室、貴族にとって不老長寿の妙薬として扱われており、庶民の栄養補助食品としてシロキクラゲは高価なツバメの巣に匹敵するといわれている。
- 杏仁饭:杏仁の炊き込みご飯。 主に家庭で作られる薬膳ご飯で加える具材は好みである。 画像はシロキクラゲを加えて炊いたもの。
- 八宝饭: もち米と砂糖、杏仁や桃仁、アンズなどのドライフルーツを使った甘いもので旧正月や宴会に供される。 「八宝」を冠するが八宝菜をご飯にかけた中華丼ではない。
- 杏仁露:杏仁を主原料とした植物性タンパク質飲料で美肌効果のためのジュースとして女性に人気が高い。 食品メーカーの承德露露(深センA株上場)は、中国に広く分布する野生のアンズ(野山杏)の杏仁(山杏仁)を使用し、栄養価を損なわないように石臼の利点を生かした加工技術を用いており、杏仁露の中では最もメジャーな商品である。 原材料に表示されている山杏仁は甜杏仁であり、苦杏仁に分類される山杏(モウコアンズ)ではない。
- 杏仁白肺汤:杏仁と豚の肺を主原料とした滋養スープ。 魚の浮き袋、鶏の足、銀杏、クワイなどを加えるのも一般的である。
- 豆腐杏仁羹:豆腐と杏仁を主原料としたスープ。 シイタケ(冬菇)の出汁、塩、ゴマ油で調味する。 好みの葉物や具材などを加える。
- 杏仁米粥:すりつぶした杏仁を米に加えて炊いた薬膳粥。 好みの葉物や具材などを加える。
- 拌杏仁:杏仁とキュウリ、セロリ、ピーマン、ニンジンなどの野菜をゴマ油と酢をベースとしたドレッシングで和えた中華サラダ。
- 宫廷杏仁茶:宮中から民衆に伝わった北京の伝統的なデザート。 杏仁、ピーナッツ、ゴマ、ハマナス、キンモクセイ、干しブドウ、クコの実、ナツメヤシ、サクランボ、白キクラゲ、サンザシなどがトッピングされる。 葛湯のような透明感があり、白濁した一般的な杏仁茶とは異なる。
- 杏仁糊:杏仁しるこ。 杏仁茶に似ているがペースト状にした餅米を加えているためトロミがある。
- 蛋白杏仁茶:杏仁茶に卵白を加えたもの。
- 杏仁燕窝:燕の巣の杏仁スープ。 香港や上海ではポピュラーなデザート。 画像は食用となるバラ属のハマナス(玫瑰:メイグイ/学名:Rosa rugosa)の花びらを散らした玫瑰杏仁燕窝。
- 熱杏仁豆腐:杏仁茶をかけた杏仁豆腐の温製仕立て。
- 杏仁豆花:豆乳を原料とした豆花(おぼろ豆腐状のもの)に杏仁の風味を加えたもの、または杏仁茶をかけたもの。
- 杏仁雪花冰:台湾式かき氷(雪花冰)の杏仁風味。
- 番茄杏仁雪花冰:台湾式かき氷の杏仁風味にミニトマトと化應子(乾燥プラムの砂糖漬け)をあしらったもの。 梅子醬(プラムソース)をかけて食す。 台湾では薑汁番茄にみられるようにトマトをデザートとしても使うため、この組み合わせは珍しくない。
- 杏仁茶:清朝の乾隆時代(18世紀中頃)に著された中国の四大小説の一つである『紅楼夢』(こうろうむ)の第54章、 1792年の袁枚(えんばい)の著書『随園食単』(ずいえんしょくたん)、1818年の李汝珍(りじょちん)の小説『鏡花緣』(きょうかえん)の第69章にも登場する中国の伝統的な軽食。 一般的に油条(揚げパン)と共に食される。 中国本土では「杏酪」(シンラオ)とも呼ばれる。
- 杏仁大燒邁:杏仁オイルが加えられた焼売(中は豚肉と魚のすり身)。 チリソースで食す。
- 杏汁包:香港の西苑酒家が考案した名物の杏仁クリームパン(杏汁雪山包)。 龍皇杏とよばれる甜杏仁と少量の苦杏仁を砕き、砂糖、コンスターチを使った、ほろ苦くて甘い濃厚な餡が入っている。 多くのレストランでも提供されるようになったが、餡は杏仁霜(きょうにんそう)で代用されることがある。
- 杏仁餅:広東省中山市の咀香園を起源とし、香港、マカオなどに拡がった。 当初は材料に杏仁は含まれていなかったが、のちに使われるようになった。 杏仁餅はマカオの名物菓子で代表的な土産品としても知られる。
日本
歴史
アンズの伝来と登場
魏志倭人伝
『魏志倭人伝』(ぎしわじんでん)は、弥生時代の倭国を記録したと云う中国の歴史書であり、現存する最古の日本史とされている文献である。 中国・西晋王朝(せいしん:265年 - 316年)時代に官僚である陳寿(ちんじゅ)が著した歴史書『三国志』に記されている極一部の章であり、正式には『三国志 魏書 巻三十・烏丸鮮卑東夷伝(うがんせんびとういでん)・倭人条』である。
魏志倭人伝には多くの学者が解読に挑み、さまざまな歴史的解釈がなされている。 邪馬台国の場所や卑弥呼の存在、生息する樹木、植物、草類などの名称も同様である。 この記録が真実を記しているのか否か、魏書なのか偽書なのか、また著述した側の時代背景、政治的背景や意図も踏まえて考えなければならない。 万に一つ、これが真実に基づいたものであったとしても、日本の文化的中央および政治的中央を記しているものではなく、中国圏に近い日本列島の一部または離島を記したものと捉えるのが自然だが、多くの歴史家は日本の原典とするあまり、この書に固執、傾倒した肯定的印象を受ける。
以下の文中から「ウメ、スモモ、クスノキ有り」または「ウメ、アンズ、クスノキ有り」という解釈がある。
“ 出真珠 青玉 其山有丹 其木有柟 杼 豫樟 楺 櫪 投橿 烏號 楓香 其竹 篠 簳桃支 有薑 橘 椒 蘘荷 不知以爲滋味 有獮猴 黒雉 ”
『三国志』巻三十・魏書三十・烏丸鮮卑東夷伝第三十・倭人条(抜粋)
これらの解釈は、倭国に茂っている植物とされ、研究者や人々は弥生時代の美しい風景を懐古的に連想する。 それであれば、平安時代に朝廷へ貢進すべきものとして日本の南の国々の多くが杏仁を献納していたはずである。 生鮮の果実ではないため十分に運搬が可能と考えられる。 しかし、54国のうち、わずか4国(山梨・長野・大阪・京都)しか献納できなかったことは『延喜式』諸國進年料雜藥の項に記されている。
平城京跡
『平城京跡』は、奈良時代・和銅3年(710年)に建造された平城京跡(へいじょうきょう)の遺跡で、現在の奈良県奈良市・大和郡山市に位置する。 平城宮(へいじょうきゅう)は、平城京の北端に位置し、現在は建造物もある程度に復元され「国営平城宮跡歴史公園」となり、日本の考古遺跡としては初の世界遺産に登録された。
アンズの伝来は諸説あるが、奈良時代(710年 – 784年)には、ウメなどと一緒に伝わっていたと考えられる。 確たる根拠は、これら宮内の遺跡からアンズの核(種)が出土したことにある。
平城京跡からは多くの在来種や外来種の植物種実が混在して出土しているが「国立文化財機構 奈良文化財研究所 都城発掘調査部 考古第一研究室」では、アンズ、ウメ、スモモ、モモは渡来種(外来種)に分類されている。
宮内で見つかった官衙遺跡のうち、位置や名称が推定できたものは馬寮(めりよう)、大膳職(だいぜんしき)、陰陽寮(おんみようりよう)、式部省、兵部省、民部省、造酒司(さけのつかさ)等であり、その遺跡を確認できたものは馬寮、大膳職、陰陽寮、造酒司である。 アンズの種は宮内の中でも特に大膳職跡から多く出土している。
大膳職は、律令制の下で設けられた宮内省に属する機関で「おおかしわでのつかさ」とも呼ぶ。 朝廷において臣下に対する饗膳を供したり、副食、調味料などの調達・製造・調理・供給を担当した。
平城京跡および平城宮跡から出土したアンズ類
- アンズ(学名:Prunus armeniaca var.ansu)
- ネッカアンズ(学名:Prunus armeniaca ?学名は不明)
- モウコアンズ(学名:Prunus sibirica)
- マンシュウアンズ(学名:Prunus mandshurica)
注* これら4種のアンズに関して学名は記されていない。 名称から学名が明白なのは、モウコアンズとマンシュウアンズである。 他の2種については、アンズはホンアンズなのか変種のアンズなのかは不明だが、単なるアンズはホンアンズの変種(学名:Prunus armeniaca var.ansu)を指すことから学名にそれを充てている。 ネッカアンズは不明であるが予測としてホンアンズの学名を添えた。
古典草木雑考
『古典草木雑考』(こてんくさきざっこう)は、岡不崩(おか ふほう)が『万葉集』に登場する植物の詳細、考察を記したもので、昭和10年(1935年)に刊行された。 本書は植物学界や万葉集研究家の間では著名な書籍である。
アンズがウメと一緒に伝わったことを基にさらに推測すると、アンズは飛鳥時代に遣隋使・遣唐使によって伝来していた可能性が高い。 中国の伝統医学が日本へ伝来したのは中国の隋・唐の時代、日本では飛鳥時代にあたる。
“ 梅字は元、象形にして子實の木上に在るの形より來れるものなり。古文は𣏁(莫後切)に作る。即ち杏の類なるを似て、杏を反して𣏁となせるなり。書家訛つて甘木となし、後、梅に作れり。”
“ 梅は和名をウメといふ。俗にムメといへり。我が飛鳥朝頃に、支那より將來せるものにして、ウメとは、烏梅の字音(吳音)なり。初め藥料として、輸入されたるものゝ一なり。”
『古典草木雑考』梅の章
※烏梅(うばい):中国語「乌梅」(ウーメイ)は生薬の一種で梅の未熟な果実を薫製にしたもの。
万葉集
『万葉集』(まんようしゅう)は、7世紀後半から8世紀後半ころにかけて編纂された日本に現存する最古の和歌集である。 天皇、貴族から下級官人、防人などさまざまな身分の人々が詠んだ歌を4,500首以上も集めたもので、成立は天平宝字3年(759年)以後とみられる。 その中には柿本人麻呂、高市黒人など飛鳥時代の有名な歌人も含まれていることで、飛鳥時代の情景を探求する手がかりにもなる。
柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)が詠んだ歌の中に「杏人」(カラヒト)という記述がある。 中国・後漢の本草書『名医別録』(3~4 世紀)では杏仁を「杏核人」、唐代の医学書『薬性論』(627年~649年)では「杏人」と記していることから、アンズは飛鳥時代には渡来していた可能性も指摘されている。 ただし、アンズの倭名「からもも」は『古今和歌集』で初めて登場する。
“ あり衣辺につきて漕がさね杏人の浜を過ぐれば恋しくありなり ”
『萬葉集』第九巻 名木河作歌二首(歌番1696) 柿本人麻呂
※『倭名類聚抄』香藥部の項にも杏仁は杏人、桃仁は桃人と記されている。
古今和歌集
『古今和歌集』(こきんわかしゅう)は、平安時代に醍醐天皇の勅命により延喜5年(905年)に成立した歌集で、天皇や上皇の命により編纂された最初の勅撰和歌集(ちょくせんわかしゅう)である。 紀友則、紀貫之、凡河内躬恒、壬生忠岑の4人によって編纂され、延喜5年(905年)4月18日に奏上された。
古今和歌集・巻第十には「物名」(もののな)の和歌が収められている。 物名とは隠題(かくしだい)とも呼ばれ、物の名を歌中に隠して詠む言葉遊び(遊戯的な技巧)の一つで高度な知性を要する。 植物では「うめ」(梅)、「かにはざくら」(樺桜)、「すもものはな」(李花)、「からもものはな」(唐桃花)、「たちはな」(橘)、「をがたまのき」(小賀玉木)が詠まれている。
“ あふからも ものはなほこそ かなしけれ 別れむことを かねて思へば ”
『古今和歌集』巻㐧十 物名(歌番429)からもゝの花 清原深養父
本草和名
『本草和名』(ほんぞうわみょう)は、日本に現存する最古の本草書(薬物辞典)である。 本書は延喜18年(918年)、醍醐天皇に侍医として仕えた深根輔仁(ふかねのすけひと)により編纂された。
“ 杏椓 一名杏子〈本條〉柵子〈味酸出崔禹〉一名黄吉 蓬莱杏〈已上二名出𠔥名苑〉和名加良毛〻 ”
『本草和名』二巻
倭名類聚抄
『倭名類聚抄』(わみょうるいじゅしょう)は、醍醐天皇の娘である勤子内親王(いそこ)の命により、源順(みなもとのしたごう)が編纂し、承平4年(934年)ごろに成立した日本最古の漢和辞書である。
“ 杏子 本草云杏子 上音荇和名 加良毛々 ”
『倭名類聚抄』巻十七 果蓏部第二十六 果類二百二十一
多識編
『多識編』(たしきへん)は、江戸初期の朱子学・儒学者である 林羅山(はやし らざん)が、中国・明代の医師である李時珍(りじちん)が1596年に著した中国の代表的な本草学の集大成『本草綱目』を編纂し、慶長17年(1612年)に成立した本草書である。
慶安2年(1649年)の多識編・五巻は、古来より「からもも」(唐桃)と呼ばれていた果実が、現在の名称である「アンズ」(安牟寸)として記述された最初の文献である。
“ 加良毛毛 俗云 安牟寸 異名 甜梅 金杏 ”
『多識編』五巻 果部第三
本朝食鑑
『本朝食鑑』(ほんちょうしょっかん)は、江戸前期の医師で本草学者である人見必大(ひとみ ひつだい)が著した食物本草学の百科事典である。 元禄8年(1695年)に漢文体で12巻12冊本で刊行された。
多識編とは異なり「加良毛毛」を「阿牟湏」と記している。
阿牟須といえば、国内最大のアンズの産地であった甲斐国(かいのくに)を治める武田家の家臣・三井氏の娘で、同じく家臣として仕えた武将・三井弥一郎の妻となり、のちに徳川家康の側室となった正栄院(阿牟須の方:おむすのかた)がいる。
“ 杏 和名 加良毛毛 今訓 阿牟湏 ”
『本朝食鑑』巻之四 果部 山果類三十二種
杏仁の登場と利用
平安時代中期
『延喜式』(えんぎしき)は、平安時代に編纂された「三代格式」(弘仁式、貞観式、延喜式)の一つである。 第60代・醍醐天皇の勅命によって、藤原時平の主導により編纂が始められ、時平の死後は藤原忠平が編纂に当たった。 弘仁式、貞観式と新たな格式を取捨選択し、延長5年(927年)12月26日に奉上された。 しかし、その後の40年間施行されることはなく、第62代・村上天皇の時代である康保四年(967年)10月9日に諸国に頒布・公布された。
『延喜式』巻第三十七・典薬寮(てんやくりょう)は、朝廷で用いられた薬種が記されている。 典薬寮は、律令制の下で設けられた宮内省に属する医療機関および医療者養成機関で「くすりのつかさ」とも呼ぶ。 天皇はじめ貴族への医療、調剤、薬種の採集と薬園の管理および医療者養成を司り、医療者には針師、按摩師、呪禁師(呪術)も含まれる。
杏仁は「臘月御藥」(ろうげつおんやく)の項に最初に登場するが、振り仮名は「カラモゝノサ子」となっている。 「カラモゝ」(カラモモ)はアンズを指す倭名であり、「サ子」の子は種子をタネと読むことでもわかるように「サネ」と読み、サネは「仁」(さね)である。 したがって「カラモモのサネ」(アンズの仁)と記している。
杏仁は「草藥五十九種」「草藥八十種」「草藥卄四種」などにも記されていることから、生薬の一つとして利用されていたことが伺える。
諸國進年料雜藥
「諸國進年料雜藥」(しょこくしんねんりょうぞうやく)の項には、朝廷に対して毎年貢進すべきものとして諸国と太宰府を含める54国が献納する貢物の品々が記録されている。 杏仁は、甲斐国(山梨県)、信濃国(長野県)、摂津国(大阪府北中部の大半と兵庫県南東部)、山城国(京都府南部)の4国のみである。 他の国々はモモから採取する「桃仁」が多くみられるが、これは杏仁の代りに献納していたのかもしれない。 摂津国と山城国は杏仁と桃仁の両方を献納している。
この記録は当時のアンズの栽培地・特産地、朝廷が杏仁を薬用として重要視していたことを示している。
献上品に杏仁が含まれる国の品数と量
※1斗は約18.039リットルの体積・容量を示す単位で、現在では通称「一斗缶」(いっとかん)とよばれる JIS(日本産業規格)で定められた18リットル缶に相当する。 1升は1斗の10分の1で日本酒の「一升瓶」1.8リットルに相当する。
『倭名類聚抄』(わみょうるいじゅしょう)は、醍醐天皇の娘である勤子内親王(いそこ)の命により、源順(みなもとのしたごう)が編纂し、承平4年(934年)ごろに成立した日本最古の漢和辞書である。
倭名類聚抄・巻十二「香藥部」の項には、視力聴力を明瞭にする丸薬として「杏人丸」、腹下しには湯薬の「杏人湯 “ 治痢 ”」、声がかすれたり出なくなった場合の煎薬「杏人煎 “ 治失聲不出 ”」が記されている。
“ 杏人丸 令耳目聰明 ”
『倭名類聚抄』巻十二 香藥部第十八 藥名類第百五十五 丸藥
室町時代
『山内料理書』(やまのうちりょうりしょ)は、室町幕府・第11代征夷大将軍の足利義澄(あしかが よしずみ)の時代である明応6年(1497年)に、山内三郎左衛門尉が著した料理書である。
室町時代は、それまで朝廷が国をおさめていた時代に代わって武士が台頭して実権を握った時代であり、武家の様式として本膳料理が生まれた。 本膳料理は鰹節の使用など今日の日本料理の基礎となっている。
杏仁は本膳料理の一の膳、二の膳、三の膳に続く「引物」(ひきもの)に登場する。
“ 是は椀之膳之仕樣なり、土器之時は汁不レ居、中之飯計可レ居、椀之時は塗折敷、一 とりもうをころも土器ならば五と入也、かわらけの時は足折也、一鯛燒物をひら燒物と云、かいしきせず、一辛螺きそくする一蛸いぼをすきて皮をむく也二 にすへて又かわらけをわりて結ぶかわらけあいの物 一分飯之時も本膳にも分飯にも手懸也、祝時は分飯の上に黑苔にても甘苔にても少置也、一三膳おも二ノ膳之方ニ居、引物より左に居、三膳以後は三くみ也とも皆引物也、皿數向居候事忌レ之、三 魚汁たるべし、こだゝみ、老海鼠汁ふぜいのものなるべし、三ど入下に重候ハあいの物、下土器は汁にもつけ、又湯をも可レ呑ため也、烏賊は靑酢からしずなり引物一五ど入吸口とん山葵を杏仁半程かわらけの端に付 ”
『山内料理書』明応六年十巳二月廿六日
戦国時代
『徳本翁十九方』(とくほんおうじゅうくほう)は、永田徳本(ながた とくほん)が著した医学書である。 戦国時代の軍医学の虎の巻とも言うべき性質があり、甲斐国を治める武田信玄(本姓:源晴信/みなもとのはるのぶ)が「十九方」を陣中の必携書としていたとされる。 永田徳本は武田信虎(信玄の父)、信玄、武田勝頼(信玄の子)の三代に渡って武田家の侍医を務め、さらには徳川家康や息子の秀忠の病を治した名医として知られる。
十九方は別名「救急十九方」とも称する。 全27種類の生薬を目的に応じて調合し、19種類の丸薬や煎じ薬が作られている。
榮陽湯(えいようとう)は、葛根、芍薬、麻黄、桂枝、生姜、杏仁、附子、甘草を配合した煎じ薬である。
また、戦国時代には、敵陣を討ち落した後、敵地の水には毒が混入されている可能性があるため、飲むことはせず、水が必要な時は必ず流れている川の水を器に汲み、それに浄水効果があるとされる杏仁やタニシの干物を入れて、その上澄みを調理や飲料水として用いたという。
江戸時代
『卜養狂歌集』(ぼくようきょうかしゅう)は、江戸時代前期の医師であり歌人であった半井卜養(なからい ぼくよう)が詠んだ狂歌集である。 写本は寛文9年(1669)に成立し、卜養の死後に刊行された。 天和元年(1681年)には「浮世絵の祖」と称される菱川師宣(ひしかわ もろのぶ)の挿絵による『卜養狂歌絵巻』が刊行された。
以下に詠まれる茶菓子(ちやぐわし)の構成から、室町時代から本膳料理や茶事の後で供される「茶の子」と同じ類であることが伺える。
“ ある人ちやぐわしに、みつかんと、杏仁と、くろまめを出して、うたよめとありければ、 題はみつかんにたえたる御所望のうたをあんずるみはくろふまめ ”
『卜養狂歌集』半井卜養
『農業全書』(のうぎょうぜんしょ)は、元禄10年(1697年)に刊行された日本最古の農書である。
“ 生なる杏を干しさらして菓子によし。又杏仁は薬に入れ、粥にし又炒りてすりくだきあへ物のかうばしにしてよし(又よく熟したるを、手ひきがんの熱湯に入れ、しばらく置きて取り出だし、砂糖一斤に杏十四五廿ほどつけ、十四五日過ぎて菓子に用ゆべし。甚だ味よし。又上焼酒一斗によく熟したる杏子百二十或は百ばかり入れ置き、五六十日過ぎて用ゆ。其味はなはだめづらし) ”
『農業全書』巻八 菓木之類 杏 㐧三
明治時代
『吾輩は猫である』(わがはいはねこである)は、夏目漱石のデビュー作で明治38年(1905年)10月6日に刊行された長編小説である。 上編・中編・下編の3冊に分けて出版された。
第2話には、「杏仁水」(きょうにんすい)が登場する。 キョウニン水は、杏仁を原料とする植物性製剤で、現在も日本薬局方収載の医薬品であり、一般用医薬品に分類される呼吸器官用薬および鎮咳去痰薬である。 規制区分では劇薬に指定される。 主要成分はアミグダリンで、他にマンデロニトリル・エムルシン・オレイン酸・パルミチン酸・トリグリセリド ・糖脂質・ホスホリピッドが含まれる。 処方は急性気管支炎にともなう咳嗽、および喀痰喀出困難な場合に用いられる。
“ ああ困った事になった。細君が年に一度の願だから是非叶えてやりたい。平生叱りつけたり、口を聞かなかったり、身上の苦労をさせたり、小供の世話をさせたりするばかりで何一つ洒掃薪水の労に酬いた事はない。今日は幸い時間もある、嚢中には四五枚の堵物もある。連れて行けば行かれる。細君も行きたいだろう、僕も連れて行ってやりたい。是非連れて行ってやりたいがこう悪寒がして眼がくらんでは電車へ乗るどころか、靴脱へ降りる事も出来ない。ああ気の毒だ気の毒だと思うとなお悪寒がしてなお眼がくらんでくる。早く医者に見てもらって服薬でもしたら四時前には全快するだろうと、それから細君と相談をして甘木医学士を迎いにやると生憎昨夜ゆうべが当番でまだ大学から帰らない。二時頃には御帰りになりますから、帰り次第すぐ上げますと云う返事である。困ったなあ、今杏仁水でも飲めば四時前にはきっと癒るに極っているんだが、運の悪い時には何事も思うように行かんもので、たまさか妻君の喜ぶ笑顔を見て楽もうと云う予算も、がらりと外れそうになって来る。 ”
『吾輩は猫である』上編・第2話(抜粋)
昭和時代
『割烹寶典 野菜百珍』(かっぽうさいてん やさいひゃくちん)は、料理研究家である林春隆(はやし はるたか)が大阪時事新報紙へ寄稿した連載記事を集約したものである。 読者の希望により、昭和5年(1930年)に大阪時事新報社から刊行された。
“ 四、豆腐の中毒にも大根おろしよし。また杏仁を砕いて呑むべし。生豆腐はことに中毒し易し。 ”
『野菜百珍』三五 中毒の話(抜粋)
“ あんずは、宋音にてあるいは杏仁ともいう。古名「からもも」、甜梅の異名がある。
幹枝葉ともに梅に似て肥ゆ。花は紅梅についで開く。形やや小さく淡紅、花の後に葉を生じ、梅に似て大きく花の八重なるに実なく、花杏という。花の一重なるは実を結ぶ。梅に似て大きく、味甘酸く、熟して黄なり、これを金杏という。また実の形大きく、黄白色なるを白杏という。上品である。花の八重なるを俗に六代と名つく、それは平重盛の孫六代君が年長じて斬られしよりの名で、この杏も長ずれば伐るゆえに六代と称したのである。また別種に杏梅というのがある。花一重にして淡紅、杏花に似て、実も酸味少くして杏の如きものである。
杏は桃に接ぐと味甘く、梅に接ぐと酸く、根のあさきものゆえ、株根の土に石を置くと実が多く生るといい伝える。
「新撰六帖」に、
いかにして匂ひそめけん日の本の我国ならぬからももの花
貞徳の句に、
しをるるは何かあんずの花の色
シナではこの杏の花を雪に擬し、妓女にくらべ、常に桃源に比して多くの韻事を伝える。また斐晋公が午橋に別業を営み、杏百株を植えて砕錦坊と名づけたなどの故事もある。
さて調理は、杏仁水、ジャム、杏糖、杏饅頭、乾杏など。 ”『野菜百珍』二〇七 杏の話
“ 「五雑爼」の養生篇に、二月路を行く人、陰地の流れを飲むべからず、人をして 瘧(おこり)を発するとある。高野の玉川の水などがそれであろう。
井戸水の濁った時は、大豆五十粒、杏仁五十、すりつぶして井戸へ入れると水が澄むということである。また瓶に汲みおく水が濁った時は、 生姜を三つ四つ沈めておくときれいに澄む、といい伝える。 ”『野菜百珍』二八〇 水の話(抜粋)
令和(厚生労働省)
日本の厚生労働省(厚生労働省医薬・生活衛生局監視指導・麻薬対策課長)が各都道府県・各保健所設置市・各特別区衛生主管部(局)長へ通達した「食薬区分における成分本質(原材料)の取扱い」について、キョウニン(アンズ・クキョウニン・ホンアンズ)の種子は医薬品として使用されるリストに指定されている。 ただし、カンキョウニンは「非医」としている。
キョウニンは「日本薬局法」の規定では、ホンアンズ(学名:Prunus armeniaca L.)と変種のアンズ(学名:Prunus armeniaca L. var. ansu Maxim.)、モウコアンズ(学名:Prunus sibirica L.)の3種の杏仁を指す。
厚生労働省が定義する「クキョウニン」は、種や学名について明らかに提示されていないが、中国の「中国薬局方」(中華人民共和国薬典)の「苦杏仁」の規定では、日本薬局法の3種のアンズに加えて、マンシュウアンズ(学名:Prunus mandshurica (Maxim.) Koehne)も含まれる。 また、厚生労働省が定義する「カンキョウニン」(甘杏仁)“ 甘い杏仁の意 ” は、一般的に「甜杏仁」(テンキョウニン)を指す。
杏仁豆腐
歴史的背景
日本における杏仁豆腐の初見は、1921年(大正10年)8月30日付の東京朝日新聞に掲載された「杏仁豆腐の枝豆和へ」(杏仁豆腐の枝豆和え)であるとされているが明確な記事は見当たらない。 これが確かであれば、杏仁豆腐をアレンジしている時点で、すでに大正時代(1912年7月30日~1926年12月25日)には杏仁豆腐はある程度ポピュラーであったことを示唆している。
また、それ以前の中国・清朝末期(1860年~1890年)、列強諸国によって翻弄され弱体化した清国では国力再建のため、西洋近代文明を導入しようと「洋務運動」が起き、日本の明治維新を手本にするべく、日本や西洋の学問を学ぶために多くの中国人留学生が日本へと渡ってきた。 東京・神田区はその基点となり、留学生は1904年(明治37年)には1,000人に達し、明治後期には5万人もの留学生が日本へ訪れていた。 彼らが求める故郷の味に応えるべく、神田は100店を超える中華料理店が連なり、中華街さながらであったことから、その頃には中華料理店で食されていた可能性がある。
中国の革命家として留学生の間で英雄的存在であった孫文、魯迅、周恩来、悲劇の女性革命家として知られる秋瑾も東京の学生街である神田で学問を学んでいた。
孫文は、1905年に東京で清国留学生を集めて「中国同盟会」を結成、1914年には東京で中国国民党の前身である「中華革命党」を組織し、革命によって勝利をおさめて帰国した。 また、周恩来は留学生時代を『十九歳の東京日記』(小学館文庫)に綴っている。
初期
日本統治時代の台湾において、1898年(明治31年)5月1日から創刊された新聞『台湾日日新報』(たいわんにちにちしんぽう:臺湾日日新報)の1927年(昭和2年)12月13日号の記事「台湾料理の話」(江山楼主人述・四)による杏仁豆腐の材料は、杏仁 30匁、砂糖 80匁、豆粉 60匁の3種類である。 グラム(1匁=3.75g)に換算すると、杏仁(112.5g)、砂糖(300g)、豆粉:大豆粉(225g)となる。 砂糖はシロップに用いる材料。
1939年(昭和14年)8月に「主婦之友社」から刊行された『花嫁講座 洋食と支那料理』にも杏仁豆腐が掲載されている。
杏仁豆腐は、昭和40年代から50年代(1965年~1984年)には学校給食に登場しているが、昭和50年半までは中国語読みの「しんれんどうふ」が多い。 昭和40年代の料理本でも、フリガナは「シンレンドウフ」となっており、1979年(昭和54年)8月に「主婦と生活」から刊行された『お嬢さまのためのやさしいクッキング』(別冊 主婦と生活 お嬢さまシリーズ①)に掲載されている杏仁豆腐の振り仮名は「しんれんとうふう」となっている。
杏仁を「シンレン」と呼ぶのは、日本でも広く知られる中国のアンズ酒「杏露酒」を「シンルーチュー」と呼ぶことからも理解できるように、ごく普通のことで不思議ではない。
1976年(昭和51年)12月10日に「主婦之友社」から刊行された『続・家庭でできる和洋菓子』の目次「中国のお菓子」の杏仁豆腐の概説では「アーモンドを擂ってその汁でこしらえたもの。こくがあっておいしい」と記載されていることから、昭和50年前半は、杏仁をアーモンドで代用することもあったが基本的には手作りに近いものである。
昭和50年代前半(1975年~1980年)は日本の現代的な杏仁豆腐(あんにんどうふ)のイントロダクション、黎明期であることが伺える。 杏仁豆腐は広く認知されたことで、さらに簡便的なものになっていく。
日本における杏仁豆腐は、昭和後期(昭和40年~64年:1965年~1989年)にかけて徐々に変化を遂げ、呼称も「あんにんどうふ」として定着した。
現代
アーモンドエッセンス
アーモンドエッセンス(Almond Essence)は、アーモンドの香気成分をエタノールに抽出した香料で、アーモンドを粉砕、圧搾して採取した液体(アーモンドミルク)とは全く異なる。 さまざまな素材の香料(エッセンス)が存在するが、マツタケの香料の主成分「マツタケオール」やトリュフの香料の主成分「2,4-ジチアペンタン」のように、人工的に化学合成したものもある。 また、製品によっては安定剤、保存料としてプロピレングリコールが添加されているものもある。
日本では、杏仁の成分を一切含まないアーモンドエッセンスを流用した杏仁豆腐が一時シェアを占めた。 この手法は杏仁のフレイバーを簡易的に再現するために現在も広く用いられている。 香りの主成分は種子に含まれる青酸配糖体(アミグダリン)を分解して抽出したベンズアルデヒドに由来する。
アーモンドは、アンズと同じバラ科サクラ属の植物で、主にスイートアーモンド(甘扁桃:かんへんとう)と、ビターアーモンド(苦扁桃:くへんとう)の2種類に分類される。 アンズ、ウメ、アーモンド、モモなど、これらバラ科の核果の種子の成分には、青酸配糖体(アミグダリン)が含まれており、スイートアーモンドは0.05%未満、ビターアーモンドには3~5%の高用量のアミグダリンが含まている。
アーモンドエッセンスの種類は、スイートアーモンドのみ、スイートアーモンドとビターアーモンドの混合、ビターアーモンドのみを原料とした製品がある。 杏仁豆腐に用いる場合、スイートアーモンド由来のエッセンスではフランスのデザート「ブラマンジェ」の簡易版に近いものになってしまうため、杏仁を使用した杏仁豆腐の香りに近づけるためには原材料を確認し、ビターアーモンド由来のものを使うとよい。 ただし、あくまで疑似的であり、杏仁の漢方・生薬を含めた薬理作用はない。 また、香料は素材の特徴的な香りのみを抽出しているため、全般的にトップノート(最初に感じる印象的な香り)のエッジが強く、終始に渡って持続性があり、天然の香りとは異なる。
杏仁霜
杏仁霜(中国語:シンレンシュアン/日本語:きょうにんそう)は、杏仁豆腐をはじめ、アイス、飲料、焼菓子、ケーキなどを作るために使用されるミックスパウダーである。 杏仁霜の原材料はメーカーよって多少の違いはあるが、基本構成は砂糖、粉飴、ぶどう糖、乳糖などがすでに加味されているのが特徴で、主要となる杏仁の他にコーンスターチ、全粉乳または脱脂粉乳、香りを補強するための香料などが含まれる。 したがって杏仁霜の用途は甘いもの全般に汎用される。
杏仁は油分が多く含まれるため、粉砕、乾燥させても、脱脂しなければサラっとしたドライパウダー状にはならない。 杏仁霜は、いわば現代のインスタント食品のような利便性のある商品として流通させるための品質や保管上の問題で、杏仁を脱脂し、加工の過程で失った風味などをその他の材料で補填・強化したのがはじまりである。
日本において杏仁霜はポピュラーなデザートとなった杏仁豆腐を手軽に作る上での基礎的な存在、特化した代表格的な存在となり、家庭や飲食店でも広く使用されている。 しかしながら「杏仁霜=杏仁豆腐」というイメージは日本で形成されたものであり、中国ではインスタントコーヒーのように即席で杏仁茶を嗜むために使われるため「杏仁霜=杏仁茶」であり、杏仁霜の商品イメージやデザインには杏仁茶が用いられる。
杏仁粉
杏仁粉(中国語:シンレンフェン/日本語:きょうにんこ)は、杏仁を100%原材料とし、杏仁の茶色い薄皮を除去したものを低温で焙煎してから粉砕したものである。 焙煎と同様、低温で蒸す製法もあるが、低温で加熱する目的は香りや栄養価の損失、油分との分離を防ぐためである。 杏仁粉は油分を多く含み、水では溶けにくくザラつくため、お湯で溶かして用いる。
中国では、脱脂せずに無添加、無漂白で製造されるピュアパウダーは一般的に「純杏仁粉」(纯杏仁粉:チュンシンレンフェン)とよばれる。 杏仁には多くの油分(約45~52%)が含まれているため、脱脂せずにそのまま粉末にしたものは粉が癒着しダマになりやすいため、見た目は粒子が粗く、淡い色を有しているのが特徴である。 サラっとした細かいパウダーは、脱脂(油分を抜く)を行うことで作れるが、本来の栄養価を大きく損ない、純白のものは漂白されている可能性があるとして好まれない。
杏仁粉は個人でも手作りされるため、甜杏仁(南杏)と苦杏仁(北杏)をブレンドして作られることもある。 市販品では、苦杏仁(北杏)を原料とした苦杏仁粉もあるが、それと比較して甜杏仁(南杏)の杏仁粉の方が一般的に多く流通している。
日本で流通している杏仁粉は甜杏仁(南杏)を原料としたものである。 砂糖などが加えられていないため、個々の好みによって杏仁の持ち味を生かした料理や飲料に幅広く用いることができる。 杏仁から杏仁粉を手作りする手間を省き、香料や杏仁霜に頼らずに本格的な杏仁豆腐を作る場合は杏仁粉がよい。
アマレット
アマレット(Amaretto)は、イタリア・ロンバルディア州ヴァレーゼ県のサロンノ発祥の歴史あるリキュールである。
伝統的な原材料は「杏仁」(アプリコットカーネル)だが、その他に桃仁、ビターアーモンド、アーモンドを使ったアマレットも存在する。 これらの香りは、いずれも杏仁豆腐に似た風味をもたらすベンズアルデヒドに由来する。 アマレットはアルコール度数21~28%(稀に30%)の酒で、蒸留酒に副原料を加えて味や香りを移したリキュールの一種である。 日本の梅酒や中国の杏露酒、フランスのルジェ・クレーム・ド・アプリコットもリキュールの一種だが、これらは果肉および果汁の味や香りに重点を置いたもので、アマレットと趣旨や方向性は異なる。
アマレットは、イタリアではアイリッシュコーヒーに加えたり、イタリアの伝統的なクッキー「アマレッティ」、デザートの「ティラミス」の風味付けや、カクテル「コッドファーザー」などに使われる。
大人味の杏仁豆腐を作るためにはアマレットを代用したり、既存の材料に加えたりするのもよい。
→主な記事:アマレット
多様性
- 抹茶杏仁豆腐:抹茶は日本の茶道を代表するものであり、緑茶は生活において馴染み深いものであるため、そこから派生した多くの菓子やデザートが存在する。 緑茶を用いた場合、茶葉に含まれる苦みや清涼感は甘味を打ち消すことなく調和し、後味にくどさが残らないのが特徴がある。 これらのデザートは海外でも日本の文化、伝統的なテイストを知るアイテムの一つとして比較的受け入れられている。 抹茶を使った杏仁豆腐は、中国を含め海外で営業している日本料理店や焼肉屋でも提供されている。 1960年(昭和35年)創業で福岡市博多区中洲に本社を置くラーメンチェーン「天然とんこつラーメン一蘭」は、2015年2月5日から「抹茶杏仁豆腐」の提供を開始した。 海外に展開する全8店舗(ニューヨークに3店舗、香港に2店舗、台湾に3店舗)でも提供している。
- 杏仁ソフトクリーム:1962年(昭和37年)創業の横浜大飯店は、1996年5月から「杏仁ソフトクリーム」(杏仁雪糕)を販売している。 杏仁粉と生クリームを原料とし、甘味料として特定保健用食品「オリゴのおかげ」を使用している。
- 杏仁豆腐クレープ:1978年(昭和53年)創業のエスニック雑貨店「チャイハネ」が展開するチャイティーカフェでは「杏仁豆腐クレープ」を提供している。
- 奇跡のフルーツサンド:1954年(昭和29年)創業の担担麺専門店「想吃担担面」が展開する杏仁スイーツ専門店「天使の杏仁」のフルーツサンドにはクリームに杏仁霜の他、南杏、北杏を原料に使っている。
ヌーベル・シノワ
中国料理は世界三大料理の一つとされている。 中国ではデザートに関して「医食同源」「薬膳」的な概念があり、伝統的なものは質素であるため、その趣旨を理解できない他国の人々には、西洋的に華やかに映るものではなかった。
近年では、ヌーベル・シノワを基調とする風潮もあり、杏仁豆腐も飛躍的な革新を遂げてきている。 ヌーベル・シノワは、中国料理の新派として認知されているジャンルの一つで、盛り付けばかりでなく食材や料理法においても幅広く取り入れるスタイルである。
高級中国料理店では、デザート部門のエキスパート(甜品师:ティェンピンシー)を専属で雇い、伝統的なスタイルと両立させつつ、斬新な杏仁豆腐や杏仁を使った多彩なデザートが生み出されている。
ギャラリー
- 明治17年(1884年)創業「聘珍樓 横濱本店」:2022年5月15日に閉店まで日本最古の中国料理店
- 明治25年(1892年)創業「萬珍樓 本店」:現存する日本最古の中国料理店