杏仁豆腐
杏仁豆腐(あんにんどうふ)
アンズ
中国
概要
杏仁豆腐は、中国の首都である北京の伝統的なデザート料理で、満漢全席にも登場する。 主に、杏仁の中でも苦味が少ない「甜杏仁」(テンキョウニン)を粉砕し、水で煮た後、冷やして切り分けたもので、豆腐に似ていることからこの名がついた。 ただし、杏仁豆腐は地方によって作り方が異なる。
杏仁は、アンズの果実の核(種子の仁)で、タンパク質が20%含まれ、デンプンは含まれていない。 中国では、甜杏仁は滋養強壮、肺の機能を高める作用があるとされる。 杏仁を正しく摂取することで、滋養強壮や喉の渇きを癒す、肺を潤して喘息を緩和する、腸を滑らかにし、腸ガンを抑制するなどの効果が得られるとされる。 しかし、主に食用とされる甜杏仁であっても、薬用とされる苦杏仁(クキョウニン)であっても、過剰摂取は杏仁に含まれる青酸配糖体(アミグダリン)による中毒を引き起こす原因となるため、水に数回浸して加熱・煮沸してから摂取する必要がある。
歴史
杏仁豆腐の起源は、三国時代にさかのぼる。 その時代、董奉(とうほう)という名医がいた。 董奉は三国時代には、張仲景として知られる張機(ちょうき:150年 - 219年)、華佗(かだ:145年 - 208年)とならぶ名医で、漢代には「建安三神医」(建安三神醫)と形容された。
董奉は医術に長けていたが、貧しい患者からは治療費を取ることはせず、その代りに重病から完治した患者にはアンズの苗木を5株、軽度の患者には1株を植えてもらったという。 彼らによって植えられた苗は立派なアンズの林となり、のちに人間的にも優れた名医を「杏林」と呼ぶようになった。 董奉を称えて建てられた像は多く見られる。
その後、杏仁は変遷を経て杏仁豆腐として宮廷に伝わり、満漢全席で有名な甘味料理となったのである。
この董奉の伝承は、東晋時代(317年 - 420年)の学者である葛洪(かつこう:283年 - 343年)が著した中国の仙人の伝記集『神仙伝』(神仙傳)に記されている。 この故事にちなみ、中国では「董仙杏林」の名を冠した病院が多い。 日本では、杏林製薬(東証1部)、杏林大学(東京都三鷹市)などがある。
日本では国語で「故事成語」(例:矛盾・蛇足・五十歩百歩・四面楚歌など)を学習するが、故事成語の「杏林」(きょうりん)とは、名医の美称、代名詞である。
杏仁の種類
中国では、ホンアンズ(学名:Prunus armeniaca L.)から採れる「甜杏仁」と、アンズ(学名:Prunus armeniaca Linne var. ansu Maximowicz)から採れる「苦杏仁」に分けられる。
これらの杏仁は、広東省や台湾では、南杏、北杏と呼ばれ、一般に甜杏仁は「南杏」、苦杏仁は「北杏」と呼ばれる。 香港では、この二つを合わせて「南北杏」とよばれるが、香港の漢方薬局では南杏を主とし、それに対して北杏は少量の割合で販売されている。
一般的に、甜杏仁は食用、苦杏仁は薬用に用いられる。
甜杏仁
甜杏仁(テンキョウニン)は、主に河北省、北京市、山東省で生産され、その他、陝西省、四川省、内モンゴル自治区、甘粛省、新疆ウイグル自治区、山西省、中国東北部でも生産されている。
苦杏仁
苦杏仁(クキョウニン)は、低山地や丘陵地の山間部で栽培されている。 主に中国北部の3地域(中国北部、中国北東部、中国北西部)で生産されており、内モンゴル自治区、吉林省、遼寧省、河北省、山西省、陝西省が最も一般的で、その中でも河北省承徳市の平泉県(へいせんけん)は中国最大の生産地である。
効能
文献
- 名医别录
- 孙思邈
- 本草拾遗
- 养性要钞
- 本草图经
本草图经は、宋代(1061年)に、蘇頌(そしょう:1020年12月16日 - 1101年6月18日)によって編纂された書物である。
杏核仁は今日どこでも見かける。 実はいくつか種類があるのだが、黄色くて丸いものを「金杏」と呼ぶ。 伝承によると、済南郡の分流山で栽培され、人々からは「帝杏」と呼ばれ、今日では多くの種類があり、熟すのが最も早い。 扁平で緑がかった黄色のものは「木杏」と呼ばれ、酢のような味がして、金杏には及ばない。 杏子は薬として使われるが、現在では東方のものが最も優れており、本国で栽培されたものが今も使われている。 山杏は薬に適さない。 5月に収穫され、種を割って二つの仁を取り出す。
- 圆明园四十景图
圆明园四十景图は、現在の北京に清代に築かれた円明園(えんめいえん)の景観を描いた絵画集である。 1744年、清の第6代皇帝である乾隆帝(けんりゅうてい)の勅命により、宮廷画家の沈源と唐岱、書家の汪由敦によって40枚が制作された。 それぞれに汪由敦が書いた「四十景詩」が添えられている。 この絵画集は、1860年にフランス軍とイギリス軍によって略奪され、フランス皇帝ナポレオン3世に献上された。 現在はフランス国立図書館に収蔵されており、破壊される以前の円明園の様子を伝える貴重な記録となっている。 描かれた絵画の40枚のうち、24枚は1860年の破壊で失われ、残りの絵画も経年の劣化により失われつつある。 その内の一つに、庭園に開花したアンズの木々を描いた「杏花春馆」がある。
杏仁豆腐
多様性
- 燕窝汤:燕の巣のスープ。 海ツバメの巣、南北杏(甜杏仁と苦杏仁)、花旗参(ウコギ科:アメリカニンジン)を主原料とした薬膳料理。 塩味の場合は鶏清湯スープ(鸡清汤)、きのこスープ(蘑菇清汤)がベースになる。 デザートの場合にはココナッツミルク、牛乳(鲜奶)、杏仁汁、氷砂糖水(冰糖水)などが使われる。
- 杏仁银耳汤:シロキクラゲ(银耳)、南北杏(甜杏仁と苦杏仁)を使った薬膳料理。 楊貴妃や西太后が好んだクコの実、ナツメヤシ、百合根、蓮の実などを加えるのも一般的である。 デザートの場合にはユキナシやマンゴーなどの果物が加えられる。 シロキクラゲは古くから王朝の王室、貴族にとって不老長寿の妙薬として扱われており、庶民の栄養補助食品としてシロキクラゲは高価なツバメの巣に匹敵するといわれている。
- 杏仁白肺汤:杏仁と豚の肺を主原料とした滋養スープ。 魚の浮き袋、鶏の足、銀杏、クワイなどを加えるのも一般的である。
- 豆腐杏仁羹:豆腐と杏仁を主原料としたスープ。 シイタケ(冬菇)の出汁、塩、ゴマ油で調味する。
- 杏仁米粥:すりつぶした杏仁を米に加えて炊いた薬膳粥。
- 拌杏仁:杏仁とキュウリ、セロリ、ピーマン、ニンジンなどの野菜をゴマ油と酢をベースとしたドレッシングで和えた中華サラダ。
- 宫廷杏仁茶:宮中から民衆に伝わった北京の伝統的なデザート。 杏仁、ピーナッツ、ゴマ、ハマナス、キンモクセイ、干しブドウ、クコの実、ナツメヤシ、サクランボ、白キクラゲ、サンザシなどがトッピングされる。 葛湯のような透明感があり、白濁した一般的な杏仁茶とは異なる。
- 杏仁糊:杏仁しるこ。 杏仁茶に似ているがペースト状にした餅米を加えているためトロミがある。
- 蛋白杏仁茶:杏仁茶に卵白を加えたもの。
- 杏仁燕窝:燕の巣の杏仁スープ。 香港や上海ではポピュラーなデザート。 画像は食用となるバラ属のハマナス(玫瑰:メイグイ/学名:Rosa rugosa)の花びらを散らした玫瑰杏仁燕窝。
- 熱杏仁豆腐:杏仁茶をかけた杏仁豆腐の温製仕立て。
- 杏仁豆花:豆乳を原料とした豆花(おぼろ豆腐状のもの)に杏仁の風味を加えたもの、または杏仁茶をかけたもの。
- 杏仁雪花冰:台湾式かき氷(雪花冰)の杏仁風味。
- 番茄杏仁雪花冰:台湾式かき氷の杏仁風味にミニトマトと化應子(乾燥プラムの砂糖漬け)をあしらったもの。 梅子醬(プラムソース)をかけて食す。 台湾では薑汁番茄にみられるようにトマトをデザートとしても使うため、この組み合わせは珍しくない。
- 杏仁茶:清朝の乾隆時代(18世紀中頃)に著された中国の四大小説の一つである『紅楼夢』(こうろうむ)の第54章、 1792年の袁枚(えんばい)の著書『随園食単』(ずいえんしょくたん)、1818年の李汝珍(りじょちん.)の小説『鏡花緣』(きょうかえん)の第69章にも登場する中国の伝統的な軽食。 一般的に油条(揚げパン)と共に食される。 中国本土では「杏酪」(シンラオ)とも呼ばれる。
- 杏仁大燒邁:杏仁オイルが加えられた焼売(中は豚肉と魚のすり身)。 チリソースで食す。
- 杏汁包:香港の西苑酒家が考案した名物の杏仁クリームパン(杏汁雪山包)。 龍皇杏とよばれる甜杏仁と少量の苦杏仁を砕き、砂糖、コンスターチを使った、ほろ苦くて甘い濃厚な餡が入っている。 多くのレストランでも提供されるようになったが、餡は杏仁霜(きょうにんそう)で代用されることがある。
- 杏仁餅:広東省中山市の咀香園を起源とし、香港、マカオなどに拡がった。 当初は材料に杏仁は含まれていなかったが、のちに使われるようになった。 杏仁餅はマカオの名物菓子で代表的な土産品としても知られる。
日本
歴史
アンズの伝来
日本への伝来は諸説あるが、奈良時代(710年 – 784年)に、ウメなどと一緒に伝わったと考えられている。 確たる根拠は、710年に建造された平城京の遺跡からアンズの種が出土したことである。
もう一つは、弥生時代の倭国(現在の日本)を記録した中国の歴史書『魏志倭人伝』(ぎしわじんでん)からである。 魏志倭人伝は多くの学者が解読に挑み、さまざまな歴史的解釈がなされている。 そこに記された倭国に生息する植樹木や草類などの植物名も同様であるが、その中に「ウメ、アンズ、クスノキ有り」という解釈がある。
杏仁
室町時代
杏仁は、室町幕府・第11代征夷大将軍の足利 義澄(あしかが よしずみ)の時代である明応6年(1497年:明応六年十巳二月廿六日)に、山内三郎左衛門尉が著した『山内料理書』(やまのうちりょうりしょ)の「ちゃのこ」の項に登場する。 「ちゃのこ」とは、“ しほしほしく、こまやかなるもの ” と記されているが、これは「茶の子」を意味する。
- 海藻類:油煎和布・泥和布(ぬため:ワカメの酢味噌和え)・煎昆布・結昆布・炙昆布・甘海苔・海苔・出雲海苔・青苔・海雲・紫苔(カワノリ)・菊池苔(カワノリ)
- 大豆・小麦類:麩・豆腐上物・唐納豆・大豆
- 蔬菜類:ごぼう・干大根・たけの子
- 果実類:くるみ・かやの実・干なつめ・生栗・串柿・杏仁
- 菌類:干松茸
戦国時代
戦国時代には、敵陣を討ち落した後、敵地の水には毒が混入されている可能性があるため、飲むことはせず、水が必要な時は必ず流れている川の水を器に汲み、そこに水の汚れを取る浄水効果があるとされる杏仁やタニシの干物を入れて、その上澄みを調理や飲料水として用いたという。
令和2年(厚生労働省)
2020年(令和2年)3月31日付で日本の厚生労働省(厚生労働省医薬・生活衛生局監視指導・麻薬対策課長)が各都道府県・各保健所設置市・各特別区衛生主管部(局)長に通達した食薬区分における成分本質(原材料)の取扱いについて、キョウニン(アンズ、クキョウニン、ホンアンズ)の種子は医薬品として使用されるリストに指定されている。 ただし、カンキョウニンは「非医」としている。 要約すると苦杏仁(北杏)を使用するのは漢方薬局を含めた製薬会社のみに許可し、食品として使用することを禁じている。 よって日本で杏仁豆腐に使用できる杏仁は、もっぱら甜杏仁(南杏)のみである。
杏仁豆腐
日本における杏仁豆腐の初見は、1921年(大正10年)8月30日付の東京朝日新聞に掲載された「杏仁豆腐の枝豆和へ」(杏仁豆腐の枝豆和え)であるとされているが明確な記事は見当たらない。 これが確かであれば、杏仁豆腐をアレンジしている点で、当時すでに杏仁豆腐はある程度ポピュラーであったことを示唆している。
また、それ以前の清朝末期(1860年~1890年)、清国では弱体化した国力再建のため、西洋近代文明を導入しようと「洋務運動」が起き、日本の明治維新を手本にするべく、日本や西洋の学問を学ぶために多くの中国人留学生が日本へと渡ってきた。 当時、中国の革命家として留学生の間で英雄的存在だった孫文、魯迅、周恩来、悲劇の女性革命家として知られる秋瑾も東京の学生街である神田で学問を学んでいた。 神田はその基点となり、留学生は1904年(明治37年)には1,000人に達し、明治後期には5万人もの留学生が日本へ訪れていた。 彼らが求める故郷の味に応えるべく、東京神田区は100店を超える中華料理店が連なり、中華街さながらであったことから、それ以前に中華料理店では食されていた可能性がある。
初期
1927年(昭和2年)12月13日に発行された『台湾日日新報』(たいわんにちにちしんぽう:臺湾日日新報)では、江山楼主人述「台湾料理の話」(四) に掲載された杏仁豆腐の材料は、杏仁30匁、砂糖80匁、豆粉60匁と書かれいている。 1939年(昭和14年)8月に「主婦之友」から発行された『花嫁講座 洋食と支那料理』にも杏仁豆腐が掲載されている。
杏仁豆腐は、昭和40年代から50年代には学校給食に登場しているが、50年半ばまでは中国語読みの「しんれんどうふ」が多い。 1979年(昭和54年)8月に「主婦と生活」から発行された『お嬢さまのためのやさしいクッキング』(別冊 主婦と生活)に掲載された杏仁豆腐の振り仮名は「しんれんとうふう」になっている。
現代
ブランマンジェ(Blanc Manger)
杏仁豆腐は、中華料理店はもとより、ラーメン店でも比較的に提供されるようになった。 福岡県福岡市博多区中洲に本社を置く、ラーメンチェーン「天然とんこつラーメン一蘭」は、2015年2月5日(木)から「抹茶杏仁豆腐」の提供を開始した。 海外に展開する全8店舗(ニューヨークに3店舗、香港に2店舗、台湾に3店舗)でも提供されている。
ヌーベル・シノワ
中国料理は世界三大料理の一つとされている。 中国ではデザートに関して「医食同源」「薬膳」的な概念があり、伝統的なものは質素であるため、その趣旨を理解できない他国の人々には、西洋的に華やかに映るものではなかった。
近年では、ヌーベル・シノワを基調とする風潮もあり、杏仁豆腐も飛躍的な革新を遂げてきている。 ヌーベル・シノワは、中国料理の新派として認知されているジャンルの一つで、盛り付け、食材や料理法においても幅広く取り入れるスタイルである。
高級中国料理店では、デザート部門のエキスパート(甜品师:ティェンピンシー)を専属で雇い、伝統的なスタイルと両立させつつ、斬新な杏仁豆腐や杏仁を使った多彩なデザートが生み出されている。
ギャラリー
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