「杏仁豆腐」の版間の差分

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天和元年(1681年)には「浮世絵の祖」と称される菱川師宣(ひしかわ もろのぶ)の挿絵による『卜養狂歌絵巻』が刊行された。
 
天和元年(1681年)には「浮世絵の祖」と称される菱川師宣(ひしかわ もろのぶ)の挿絵による『卜養狂歌絵巻』が刊行された。
  
この歌と挿絵から室町時代から茶事で供される「茶の子」であることが伺える。
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この歌と挿絵から室町時代から本膳料理や茶事の後で供される「茶の子」であることが伺える。
  
 
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<blockquote><poem>“ ある人ちやぐわしに、みつかんと、{{Font color||#FFE6E6|杏仁}}と、くろまめを出して、うたよめとありければ、 題はみつかんにたえたる御所望のうたを{{Font color||#FFE6E6|あんず}}るみはくろふまめ ”</poem>

2023年1月19日 (木) 19:25時点における版

杏仁豆腐(日本)

杏仁豆腐(中国語:シンレンドウフ―/日本語:あんにんどうふ)は、中国を起源する薬膳料理、およびデザート(甜品:ティエンピン)である。

中国

概要

伝統的な杏仁豆腐(中国・北京市)

杏仁豆腐は、中国の首都である北京の伝統的なデザート料理で、満漢全席にも登場する。 主に、杏仁の中でも苦味が少ない「甜杏仁」(テンキョウニン)を粉砕し、水で煮た後、冷やして切り分けたもので、豆腐に似ていることからこの名がついた。 ただし、杏仁豆腐は地方によって作り方が異なる。

杏仁は、アンズの果実の核(種子の仁)で、タンパク質が20%含まれ、デンプンは含まれていない。 中国では、甜杏仁は滋養強壮、肺の機能を高める作用があるとされる。 杏仁を正しく摂取することで、滋養強壮や喉の渇きを癒す、肺を潤して喘息を緩和する、腸を滑らかにし、腸ガンを抑制するなどの効果が得られるとされる。 しかし、主に食用とされる甜杏仁であっても、薬用とされる苦杏仁(クキョウニン)であっても、過剰摂取は杏仁に含まれる青酸配糖体(アミグダリン)による中毒を引き起こす原因となるため、水に数回浸して加熱・煮沸してから摂取する必要がある。

歴史

董奉の想像画(中国)

杏仁豆腐の起源は、三国時代にさかのぼる。 その時代、董奉(とうほう)という名医がいた。 董奉は三国時代には、張仲景として知られる張機(ちょうき:150年 - 219年)、華佗(かだ:145年 - 208年)とならぶ名医で、漢代には「建安三神医」(建安三神醫)と形容された。

董奉は医術に長けていたが、貧しい患者からは治療費を取ることはせず、その代りに重病から完治した患者にはアンズの苗木を5株、軽度の患者には1株を植えてもらったという。 彼らによって植えられた苗は立派なアンズの林となり、のちに人間的にも優れた名医を「杏林」と呼ぶようになった。 董奉を称えて建てられた像は多く見られる。

その後、杏仁は変遷を経て杏仁豆腐として宮廷に伝わり、満漢全席で有名な甘味料理となったのである。

この董奉の伝承は、東晋時代(317年 - 420年)の学者である葛洪(かつこう:283年 - 343年)が著した中国の仙人の伝記集『神仙伝』(神仙傳)に記されている。 この故事にちなみ、中国では「董仙杏林」の名を冠した病院が多い。 日本では、杏林製薬(東証1部)、杏林大学(東京都三鷹市)などがある。

日本では国語で「故事成語」(例:矛盾・蛇足・五十歩百歩・四面楚歌など)を学習するが、故事成語の「杏林」(きょうりん)とは、名医の美称、代名詞である。

杏仁の種類

アンズの種子(左下)と杏仁
中央から左が南杏、右が北杏
※白いものは茶色い薄皮を除去したもの

中国では、ホンアンズ(学名:Prunus armeniaca L.)から採れる「甜杏仁」と、アンズ(学名:Prunus armeniaca Linne var. ansu Maximowicz)から採れる「苦杏仁」に分けられる。

これらの杏仁は、広東省や台湾では、南杏、北杏と呼ばれ、一般に甜杏仁は「南杏」、苦杏仁は「北杏」と呼ばれる。 香港では、この二つを合わせて「南北杏」とよばれるが、香港の漢方薬局では南杏を主とし、それに対して北杏は少量の割合で販売されている。

一般的に、甜杏仁は食用、苦杏仁は薬用に用いられる。

甜杏仁

甜杏仁(テンキョウニン)は、主に河北省、北京市、山東省で生産され、その他、陝西省、四川省、内モンゴル自治区、甘粛省、新疆ウイグル自治区、山西省、中国東北部でも生産されている。

苦杏仁

苦杏仁(クキョウニン)は、低山地や丘陵地の山間部で栽培されている。 主に中国北部の3地域(中国北部、中国北東部、中国北西部)で生産されており、内モンゴル自治区、吉林省、遼寧省、河北省、山西省、陝西省が最も一般的で、その中でも河北省承徳市の平泉県(へいせんけん)は中国最大の生産地である。

効能

文献

広大な大地に咲く満開のアンズ(中国)
杏花春馆『圆明园四十景图』1744年
(フランス国立図書館蔵)
  • 名医别录
  • 孙思邈
  • 本草拾遗
  • 养性要钞
  • 本草图经

本草图经は、宋代(1061年)に、蘇頌(そしょう:1020年12月16日 - 1101年6月18日)によって編纂された書物である。

杏核仁は今日どこでも見かける。 実はいくつか種類があるのだが、黄色くて丸いものを「金杏」と呼ぶ。 伝承によると、済南郡の分流山で栽培され、人々からは「帝杏」と呼ばれ、今日では多くの種類があり、熟すのが最も早い。 扁平で緑がかった黄色のものは「木杏」と呼ばれ、酢のような味がして、金杏には及ばない。 杏子は薬として使われるが、現在では東方のものが最も優れており、本国で栽培されたものが今も使われている。 山杏は薬に適さない。 5月に収穫され、種を割って二つの仁を取り出す。

  • 圆明园四十景图

圆明园四十景图は、現在の北京に清代に築かれた円明園(えんめいえん)の景観を描いた絵画集である。 1744年、清の第6代皇帝である乾隆帝(けんりゅうてい)の勅命により、宮廷画家の沈源と唐岱、書家の汪由敦によって40枚が制作された。 それぞれに汪由敦が書いた「四十景詩」が添えられている。 この絵画集は、1860年にフランス軍とイギリス軍によって略奪され、フランス皇帝ナポレオン3世に献上された。 現在はフランス国立図書館に収蔵されており、破壊される以前の円明園の様子を伝える貴重な記録となっている。 描かれた絵画の40枚のうち、24枚は1860年の破壊で消失し、残りの絵画も経年の劣化により失われつつある。 その内の一つに、庭園に開花したアンズの木々を描いた「杏花春馆」がある。

ブラマンジェ

ブラマンジェという語源は古フランス語に由来し、起源は中世初期(西暦476年~1000年)にアラブの商人がのヨーロッパに米とアーモンドを持ち込んだことに由来し、歴史と共に進化したとされてるが、19世紀にフレンチのデザートとして最終的に確立したブランマンジェはそれとは異なる。

フランス人シェフでイギリスでも活躍したオーギュスト・エスコフィエの著書『LE GUIDE CULINAIRE』(1903年刊行)に記されている「ブランマンジェ・ア・ラ・フランセーズ」(Blanc-manger à la Française:フランス風ブランマンジェ)は、中国の杏仁豆腐と非常に近い。

材料は、スイートアーモンド(甘扁桃仁)とビターアーモンド(苦扁桃仁)を砕いて布で絞ったもの、水、角砂糖、ゼラチンである。

歴史的背景

1840年5月、清国(中国)はイギリスとアヘン戦争となり、1842年8月29日に「南京条約」が締結された。 この条約は、福州、厦門、寧波、上海のあわせて5つの開港、香港島を割譲など、中国にとって極めて不利な不平等条約であった。 1856年には、不平等条約である南京条約を拡大した「天津条約」をイギリス・フランス・ロシア・アメリカの4カ国が結ぼうとし、それに対し清国が拒否したため、さらに第二次アヘン戦争ともいわれるアロー戦争が起こり、1860年にはフランス軍とイギリス軍が清国の首都である北京を攻撃し占領した。 それにより、天津条約に加え、新たな内容を加えた「北京条約」が締結されたのである。 これはのちの「洋務運動」へ繋がり、明治時代・中期に多くの中国人留学生が日本へ渡ってきた。

杏仁豆腐

多様性

燕の巣のスープ「燕窝汤」イェンウォータン(中国)
杏仁银耳汤」シンレンインアルタン(中国)
杏仁露」シンレンルー(中国)
  • 燕窝汤:燕の巣のスープ。 海ツバメの巣、南北杏(甜杏仁と苦杏仁)、花旗参(ウコギ科:アメリカニンジン)を主原料とした薬膳料理。 塩味の場合は鶏清湯スープ(鸡清汤)、きのこスープ(蘑菇清汤)がベースになる。 デザートの場合にはココナッツミルク、牛乳(鲜奶)、杏仁汁、氷砂糖水(冰糖水)などが使われる。
  • 杏仁银耳汤:シロキクラゲ(银耳)、南北杏(甜杏仁と苦杏仁)を使った薬膳料理。 楊貴妃や西太后が好んだクコの実、ナツメヤシ、百合根、蓮の実などを加えるのも一般的である。 デザートの場合にはユキナシやマンゴーなどの果物が加えられる。 シロキクラゲは古くから王朝の王室、貴族にとって不老長寿の妙薬として扱われており、庶民の栄養補助食品としてシロキクラゲは高価なツバメの巣に匹敵するといわれている。
  • 杏仁白肺汤:杏仁と豚の肺を主原料とした滋養スープ。 魚の浮き袋、鶏の足、銀杏、クワイなどを加えるのも一般的である。
  • 豆腐杏仁羹:豆腐と杏仁を主原料としたスープ。 シイタケ(冬菇)の出汁、塩、ゴマ油で調味する。
  • 杏仁米粥:すりつぶした杏仁を米に加えて炊いた薬膳粥。
  • 拌杏仁:杏仁とキュウリ、セロリ、ピーマン、ニンジンなどの野菜をゴマ油と酢をベースとしたドレッシングで和えた中華サラダ。
  • 宫廷杏仁茶:宮中から民衆に伝わった北京の伝統的なデザート。 杏仁、ピーナッツ、ゴマ、ハマナス、キンモクセイ、干しブドウ、クコの実、ナツメヤシ、サクランボ、白キクラゲ、サンザシなどがトッピングされる。 葛湯のような透明感があり、白濁した一般的な杏仁茶とは異なる。
  • 杏仁糊:杏仁しるこ。 杏仁茶に似ているがペースト状にした餅米を加えているためトロミがある。
  • 蛋白杏仁茶:杏仁茶に卵白を加えたもの。
  • 杏仁燕窝:燕の巣の杏仁スープ。 香港や上海ではポピュラーなデザート。 画像は食用となるバラ属のハマナス(玫瑰:メイグイ/学名:Rosa rugosa)の花びらを散らした玫瑰杏仁燕窝。
  • 熱杏仁豆腐:杏仁茶をかけた杏仁豆腐の温製仕立て。
  • 杏仁豆花:豆乳を原料とした豆花(おぼろ豆腐状のもの)に杏仁の風味を加えたもの、または杏仁茶をかけたもの。
  • 杏仁雪花冰:台湾式かき氷(雪花冰)の杏仁風味。
  • 番茄杏仁雪花冰:台湾式かき氷の杏仁風味にミニトマトと化應子(乾燥プラムの砂糖漬け)をあしらったもの。 梅子醬(プラムソース)をかけて食す。 台湾では薑汁番茄にみられるようにトマトをデザートとしても使うため、この組み合わせは珍しくない。
  • 杏仁茶:清朝の乾隆時代(18世紀中頃)に著された中国の四大小説の一つである『紅楼夢』(こうろうむ)の第54章、 1792年の袁枚(えんばい)の著書『随園食単』(ずいえんしょくたん)、1818年の李汝珍(りじょちん.)の小説『鏡花緣』(きょうかえん)の第69章にも登場する中国の伝統的な軽食。 一般的に油条(揚げパン)と共に食される。 中国本土では「杏酪」(シンラオ)とも呼ばれる。
  • 杏仁大燒邁:杏仁オイルが加えられた焼売(中は豚肉と魚のすり身)。 チリソースで食す。
  • 杏汁包:香港の西苑酒家が考案した名物の杏仁クリームパン(杏汁雪山包)。 龍皇杏とよばれる甜杏仁と少量の苦杏仁を砕き、砂糖、コンスターチを使った、ほろ苦くて甘い濃厚な餡が入っている。 多くのレストランでも提供されるようになったが、餡は杏仁霜(きょうにんそう)で代用されることがある。
  • 杏仁餅:広東省中山市の咀香園を起源とし、香港、マカオなどに拡がった。 当初は材料に杏仁は含まれていなかったが、のちに使われるようになった。 杏仁餅はマカオの名物菓子で代表的な土産品としても知られる。


日本

歴史

アンズの伝来

平城京遺跡

日本への伝来は諸説あるが、奈良時代(710年 – 784年)に、ウメなどと一緒に伝わったと考えらる。 確たる根拠は、710年に建造された平城京の遺跡からアンズの種が出土したことである。

古典草木雑考
乌梅(中国)

アンズがウメと一緒に伝わったことを基にさらに考察する。
岡 不崩(おか ふほう)の著書『古典草木雑考』(こてんくさきざっこう)の梅の章には「梅字は元、象形にして子實の木上に在るの形より來れるものなり。古文は𣏁(莫後切)に作る。即ちの類なるを似て、杏を反して𣏁となせるなり。書家訛つて甘木となし、後、梅に作れり。」とある。 続いて「梅は和名をウメといふ。俗にムメといへり。我が飛鳥朝頃に、支那より將來せるものにして、ウメとは、烏梅の字音(吳音)なり。初め藥料として、輸入されたるものゝ一なり。」と記されていることからアンズは飛鳥時代に遣隋使・遣唐使によって伝来していた可能性もある。 中国の伝統医学が日本へ伝来したのは中国の隋・唐の時代、日本では飛鳥時代にあたる。

※烏梅(うばい):中国語で「乌梅」(ウーメイ)は生薬の一種で梅の未熟な果実を薫製したもの。

万葉集
『萬葉集』第九巻 名木河作歌二首

『万葉集』(まんようしゅう)は、7世紀後半から8世紀後半ころにかけて編纂された日本に現存する最古の和歌集である。 天皇、貴族から下級官人、防人などさまざまな身分の人々が詠んだ歌を4,500首以上も集めたもので、成立は天平宝字3年(759年)以後とみられる。 その中には柿本人麻呂、高市黒人など飛鳥時代の有名な歌人も含まれていることで、飛鳥時代の情景を探求する手がかりにもなっている。

柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)が詠んだ歌の中に「杏人」という記述がある。 中国・後漢の本草書『名医別録』(3~4 世紀)では杏仁を「杏核人」、唐代の医学書『薬性論』(627年~649年)では「杏人」と記していることから、アンズは飛鳥時代には渡来していた可能性も指摘されている。 ただし、アンズの倭名「からもも」は『古今和歌集』で初めて登場する。

“ あり衣辺につきて漕がさね杏人の浜を過ぐれば恋しくありなり ”

『萬葉集』第九巻 名木河作歌二首(歌番1696) 柿本人麻呂
古今和歌集
『古今和歌集』巻第十 物名

『古今和歌集』(こきんわかしゅう)は、平安時代に醍醐天皇の勅命により延喜5年(905年)に成立した歌集で、天皇や上皇の命により編纂された最初の勅撰和歌集(ちょくせんわかしゅう)である。 紀友則、紀貫之、凡河内躬恒、壬生忠岑の4人によって編纂され、延喜5年(905年)4月18日に奏上された。

古今和歌集・巻第十には「物名」(もののな)の和歌が収められている。 物名とは物の名を歌中に隠して詠む言葉遊び(遊戯的な技法)の一つである。 植物では「うめ」(梅)、「かにはざくら」(樺桜)、「すもものはな」(李花)、からもものはな」(唐桃花)、「たちはな」(橘)、「をがたまのき」(小賀玉木)が詠まれている。

“ あふからも ものはなほこそ かなしけれ 別れむことを かねて思へば ”

『古今和歌集』巻㐧十 物名(歌番429)からもゝの花 清原深養父
本草和名

『本草和名』(ほんぞうわみょう)は、日本に現存する最古の本草書(薬物辞典)である。 本書は延喜18年(918年)、醍醐天皇に侍医として仕えた深根輔仁(ふかねのすけひと)により編纂された。 「杏椓、一名杏子、和名 加良毛〻」と記されている。

箋中倭名類聚抄

狩谷 棭斎(かりや えきさい)の著した『箋中倭名類聚抄』(せんちゅうわみょうるいじゅしょう)は、平安時代中期に 編纂された辞書『倭名類聚抄』(わみょうるいじゅしょう)の注釈書である。 倭名類聚抄は、承平年間(931年 - 938年)、醍醐天皇の娘である勤子内親王(いそこ)の命により源順(みなもとのしたごう)が編纂した。

箋中倭名類聚抄の植物の部 木五 倭名類聚抄 十七菓の章で「皇國古無梅、故古事記、日本書紀、皆無是物、後自西土致之、然則宇女是以梅字音爲名也、」 “ 皇国古くは梅なし、ゆえに古事記、日本書紀に皆是物なし、後に西土より之を致す ”と記されている。

魏志倭人伝

弥生時代の倭国(現在の日本)を記録した中国の歴史書『魏志倭人伝』(ぎしわじんでん)は多くの学者が解読に挑み、さまざまな歴史的解釈がなされている。 そこに記された倭国に生息する植樹木や草類などの植物名も同様であるが、その中に「ウメ、スモモ、クスノキ有り」という解釈がある。

本朝食鑑

『本朝食鑑』(ほんちょうしょっかん) 和漢三才圖會 八十六 五果

「豊後梅(ぶんごむめ)〈豊後大分郡用内所産支那所謂鵝梅是矣、〉 消梅(こむめ)〈本朝俗(○)、鵝梅為(○○○)豊後梅(○○○)、消梅為(○○○)信濃梅(○○○)、凡諸品如此者居多、蓋斥州県別大小、所以暗令〓知美悪也、〉 〓(同) 燕梅(同)〈西京雑記〉

多識編
『多識編』五巻 果部第三

『多識編』(たしきへん)は、江戸初期の朱子学・儒学者である 林羅山(はやし らざん)が、中国・明代の医師である李時珍(りじちん)が1596年に著した中国の代表的な本草学の集大成『本草綱目』を編纂し、慶長17年(1612年)に成立した本草書である。

慶安2年(1649年)の多識編・五巻は、古来より「からもも」(唐桃)と呼ばれていた果実が、現在の名称である「アンズ」(安牟寸)として記述された最初の文献である。

“ 加良毛毛 俗云 安牟寸 異名 甜梅 金杏 ”

『多識編』五巻 果部第三

杏仁の登場と利用

平安時代中期
『延喜式』巻第三十七・臘月御藥
『延喜式』巻第三十七・草藥八十種

『延喜式』(えんぎしき)は、平安時代に編纂された「三代格式」(弘仁式、貞観式、延喜式)の一つである。 第60代・醍醐天皇の勅命によって、藤原時平の主導により編纂を始められ、時平の死後は藤原忠平が編纂に当たった。 弘仁式、貞観式と新たな格式を取捨選択し、延長5年(927年)12月26日に奉上された。 しかし、その後の40年間施行されることはなく、第62代・村上天皇の時代である康保四年(967年)10月9日に諸国に頒布・公布された。

『延喜式』巻第三十七・典薬寮(てんやくりょう)は、朝廷で用いられた薬種が記されている。 典薬寮は、律令制の下で設けられた宮内省に属する医療機関および医療者養成機関で「くすりのつかさ」とも呼ぶ。 天皇はじめ貴族への医療、調剤、薬種の採集と薬園の管理および医療者養成を司り、医療者には針師、按摩師、呪禁師(呪術)も含まれる。

杏仁は「臘月御藥」(ろうげつおんやく)の項に最初に登場するが、振り仮名は「カラモゝノサ子」となっている。 「カラモゝ」(カラモモ)はアンズを指す倭名であり、「サ子」の子は種子をタネと読むことでもわかるように「サネ」と読み、サネは「仁」(さね)である。 したがって「カラモモのサネ」(アンズの仁)と記している。

杏仁は「草藥五十九種」「草藥八十種」「草藥卄四種」などにも記されていることから、生薬の一つとして利用されていたことが伺える。

諸國進年料雜藥

『延喜式』巻第三十七・諸國進年料雜藥(甲斐國十二種)

「諸國進年料雜藥」(しょこくしんねんりょうぞうやく)の項には、朝廷に対して毎年貢進すべきものとして諸国と太宰府を含める54国が献納する貢物の品々が記録されている。 杏仁は、甲斐国(山梨県)、信濃国(長野県)、摂津国(大阪府北中部の大半と兵庫県南東部)、山城国(京都府南部)の4国のみである。 他の国々はモモから採取する「桃仁」が多くみられるが、これは杏仁の代りに献納していたのかもしれない。 摂津国と山城国は杏仁と桃仁の両方を献納している。

この記録は当時のアンズの栽培地・特産地、朝廷が杏仁を薬用として重要視していたことを示している。

献上品に杏仁が含まれる国の品数と量

  • 甲斐國十二種:杏仁七斗五升
  • 信濃國十七種:杏仁六斗
  • 攝津國四十四種:杏仁一斗九升 + 桃仁一升
  • 山城國三十二種:杏仁一斗八升 + 桃仁九升

※1斗は約18.039リットルの体積・容量を示す単位で、現在では通称「一斗缶」とよばれるJIS(日本産業規格)で定められた18リットル缶に相当する。 1升は1斗の10分の1で日本酒の「一升瓶」1.8リットルに相当する。

室町時代
『山内料理書』本膳料理 ※左から一の膳・二の膳・三の膳・引物

『山内料理書』(やまのうちりょうりしょ)は、室町幕府・第11代征夷大将軍の足利義澄(あしかが よしずみ)の時代である明応6年(1497年)に、山内三郎左衛門尉が著した料理書である。

室町時代は、それまで朝廷が国をおさめていた時代に代わり、武士が台頭して実権を握った時代であり、武家の様式として本膳料理が生まれた。 本膳料理は鰹節の使用など今日の日本料理の基礎となっている。

杏仁は、本膳料理の一の膳、二の膳、三の膳に続く「引物」(ひきもの)に登場する。

“ 是は椀之膳之仕樣なり、土器之時は汁不レ居、中之飯計可レ居、椀之時は塗折敷、一 とりもうをころも土器ならば五と入也、かわらけの時は足折也、一鯛燒物をひら燒物と云、かいしきせず、一辛螺きそくする一蛸いぼをすきて皮をむく也二 にすへて又かわらけをわりて結ぶかわらけあいの物 一分飯之時も本膳にも分飯にも手懸也、祝時は分飯の上に黑苔にても甘苔にても少置也、一三膳(○○)おも二ノ膳(○○○)之方ニ居、引物より左に居、三膳以後は三くみ也とも皆引物也、皿數向居候事忌レ之、三 魚汁たるべし、こだゝみ、老海鼠汁ふぜいのものなるべし、三ど入下に重候ハあいの物、下土器は汁にもつけ、又湯をも可レ呑ため也、烏賊は靑酢からしずなり引物一五ど入吸口とん山葵を杏仁半程かわらけの端に付 ”

『山内料理書』明応六年十巳二月廿六日
戦国時代
『徳本翁十九方』榮陽湯

『徳本翁十九方』(とくほんおうじゅうくほう)は、永田徳本(ながた とくほん)が著した医学書である。 戦国時代の軍医学の虎の巻とも言うべき性質があり、武田信玄が「十九方」を陣中の必携書としていたともされる。 十九方は別名「救急十九方」とも称する。 全27種類の生薬を目的に応じて調合し、19種類の丸薬や煎じ薬が作られている。

榮陽湯(えいようとう)は、葛根、芍薬、麻黄、桂枝、生姜、杏仁、附子、甘草を配合した煎じ薬である。

また、戦国時代には、敵陣を討ち落した後、敵地の水には毒が混入されている可能性があるため、飲むことはせず、水が必要な時は必ず流れている川の水を器に汲み、それに浄水効果があるとされる杏仁やタニシの干物を入れて、その上澄みを調理や飲料水として用いたという。

江戸時代
『卜養狂歌絵巻』

『卜養狂歌集』(ぼくようきょうかしゅう)は、半井卜養(なからい ぼくよう)が詠んだ狂歌集である。 天和元年(1681年)には「浮世絵の祖」と称される菱川師宣(ひしかわ もろのぶ)の挿絵による『卜養狂歌絵巻』が刊行された。

この歌と挿絵から室町時代から本膳料理や茶事の後で供される「茶の子」であることが伺える。

“ ある人ちやぐわしに、みつかんと、杏仁と、くろまめを出して、うたよめとありければ、 題はみつかんにたえたる御所望のうたをあんずるみはくろふまめ ”

『卜養狂歌集』半井卜養
明治時代
『吾輩ハ猫デアル』

『吾輩は猫である』(わがはいはねこである)

“ ああ困った事になった。細君が年に一度の願だから是非叶えてやりたい。平生叱りつけたり、口を聞かなかったり、身上の苦労をさせたり、小供の世話をさせたりするばかりで何一つ洒掃薪水の労に酬いた事はない。今日は幸い時間もある、嚢中には四五枚の堵物もある。連れて行けば行かれる。細君も行きたいだろう、僕も連れて行ってやりたい。是非連れて行ってやりたいがこう悪寒がして眼がくらんでは電車へ乗るどころか、靴脱へ降りる事も出来ない。ああ気の毒だ気の毒だと思うとなお悪寒がしてなお眼がくらんでくる。早く医者に見てもらって服薬でもしたら四時前には全快するだろうと、それから細君と相談をして甘木医学士を迎いにやると生憎昨夜ゆうべが当番でまだ大学から帰らない。二時頃には御帰りになりますから、帰り次第すぐ上げますと云う返事である。困ったなあ、今杏仁水でも飲めば四時前にはきっと癒るに極っているんだが、運の悪い時には何事も思うように行かんもので、たまさか妻君の喜ぶ笑顔を見て楽もうと云う予算も、がらりと外れそうになって来る。 ”

『吾輩は猫である』第2話(抜粋)

※杏仁水(きょうにんすい)は日本薬局方収載の医薬品の一つで杏仁由来の鎮咳去痰薬。

昭和時代

『割烹宝典 野菜百珍』(かっぽうほうてん やさいひゃくちん)

令和2年(厚生労働省)
厚生労働省の杏仁の取り扱いについて(令和2年3月31日)

2020年(令和2年)3月31日付で日本の厚生労働省(厚生労働省医薬・生活衛生局監視指導・麻薬対策課長)が各都道府県・各保健所設置市・各特別区衛生主管部(局)長へ通達した「食薬区分における成分本質(原材料)の取扱い」について、キョウニン(アンズ、クキョウニン、ホンアンズ)の種子は医薬品として使用されるリストに指定されている。 ただし、カンキョウニンは「非医」としている。 要約すると苦杏仁(北杏)を使用するのは漢方薬局を含めた製薬会社のみに許可し、食品として使用することを禁じている。 よって日本で杏仁豆腐に公共的(おおやけ)に使用できるのは、甜杏仁(南杏)のみである。

杏仁豆腐

歴史的背景

孫文や周恩来が訪れていた明治44年(1911年)創業の『漢陽楼』(東京・神田小川町)※現在も営業中

日本における杏仁豆腐の初見は、1921年(大正10年)8月30日付の東京朝日新聞に掲載された「杏仁豆腐の枝豆和へ」(杏仁豆腐の枝豆和え)であるとされているが明確な記事は見当たらない。 これが確かであれば、杏仁豆腐をアレンジしている時点で、すでに大正時代(1912年7月30日~1926年12月25日)には杏仁豆腐はある程度ポピュラーであったことを示唆している。

また、それ以前の中国・清朝末期(1860年~1890年)、列強諸国によって翻弄され弱体化した清国では国力再建のため、西洋近代文明を導入しようと「洋務運動」が起き、日本の明治維新を手本にするべく、日本や西洋の学問を学ぶために多くの中国人留学生が日本へと渡ってきた。 東京・神田区はその基点となり、留学生は1904年(明治37年)には1,000人に達し、明治後期には5万人もの留学生が日本へ訪れていた。 彼らが求める故郷の味に応えるべく、神田は100店を超える中華料理店が連なり、中華街さながらであったことから、その頃には中華料理店で食されていた可能性がある。

中国の革命家として留学生の間で英雄的存在であった孫文、魯迅、周恩来、悲劇の女性革命家として知られる秋瑾も東京の学生街である神田で学問を学んでいた。

孫文は、1905年に東京で清国留学生を集めて「中国同盟会」を結成、1914年には東京で中国国民党の前身である「中華革命党」を組織し、革命によって勝利をおさめて帰国した。 また、周恩来は留学生時代を『十九歳の東京日記』(小学館文庫)に綴っている。

初期

日本の古典的な杏仁豆腐

日本統治時代の台湾において、1898年(明治31年)5月1日から創刊された新聞『台湾日日新報』(たいわんにちにちしんぽう:臺湾日日新報)の1927年(昭和2年)12月13日号の記事「台湾料理の話」(江山楼主人述・四)による杏仁豆腐の材料は、杏仁 30匁、砂糖 80匁、豆粉 60匁の3種類である。 グラム(1匁=3.75g)に換算すると、杏仁(112.5g)、砂糖(300g)、豆粉:大豆粉(225g)となる。 砂糖はシロップに用いる材料。

1939年(昭和14年)8月に「主婦之友社」から刊行された『花嫁講座 洋食と支那料理』にも杏仁豆腐が掲載されている。

杏仁豆腐は、昭和40年代から50年代(1965年~1984年)には学校給食に登場しているが、昭和50年半までは中国語読みの「しんれんどうふ」が多い。 昭和40年代の料理本でも、フリガナは「シンレンドウフ」となっており、1979年(昭和54年)8月に「主婦と生活」から刊行された『お嬢さまのためのやさしいクッキング』(別冊 主婦と生活 お嬢さまシリーズ①)に掲載されている杏仁豆腐の振り仮名は「しんれんとうふう」となっている。

杏仁を「シンレン」と呼ぶのは、日本でも広く知られる中国のアンズ酒「杏露酒」を「シンルーチュー」と呼ぶことからも理解できるように、ごく普通のことで不思議ではない。

1976年(昭和51年)12月10日に「主婦之友社」から刊行された『続・家庭でできる和洋菓子』の目次「中国のお菓子」の杏仁豆腐の概説では「アーモンドを擂ってその汁でこしらえたもの。こくがあっておいしい」と記載されていることから、昭和50年前半は、杏仁をアーモンドで代用することもあったが基本的には手作りに近いものである。

昭和50年代前半(1975年~1980年)は日本の現代的な杏仁豆腐(あんにんどうふ)のイントロダクション、黎明期であることが伺える。 杏仁豆腐は広く認知されたことで、さらに簡便的なものになっていく。

日本における杏仁豆腐は、昭和後期(昭和40年~64年:1965年~1989年)にかけて徐々に変化を遂げ、呼称も「あんにんどうふ」として定着した。

現代

アーモンドエッセンス
ビターアーモンドエッセンス

アーモンドエッセンス(Almond Essence)は、アーモンドの香気成分をエタノールに抽出した香料で、アーモンドを粉砕、圧搾して採取した液体(アーモンドミルク)とは全く異なる。 さまざまな素材の香料(エッセンス)が存在するが、マツタケの香料の主成分「マツタケオール」やトリュフの香料の主成分「2,4-ジチアペンタン」のように、人工的に化学合成したものもある。 また、製品によっては安定剤、保存料としてプロピレングリコールが添加されているものもある。

日本では、杏仁の成分を一切含まないアーモンドエッセンスを流用した杏仁豆腐が一時シェアを占めた。 この手法は杏仁のフレイバーを簡易的に再現するために現在も広く用いられている。 香りの主成分は種子に含まれる青酸配糖体(アミグダリン)を分解して抽出したベンズアルデヒドに由来する。

アーモンドは、アンズと同じバラ科サクラ属の植物で、主にスイートアーモンド(甘扁桃:かんへんとう)と、ビターアーモンド(苦扁桃:くへんとう)の2種類に分類される。 アンズ、ウメ、アーモンド、モモなど、これらバラ科の核果の種子の成分には、青酸配糖体(アミグダリン)が含まれており、スイートアーモンドは0.05%未満、ビターアーモンドには3~5%の高用量のアミグダリンが含まている。

アーモンドエッセンスの種類は、スイートアーモンドのみ、スイートアーモンドとビターアーモンドの混合、ビターアーモンドのみを原料とした製品がある。 杏仁豆腐に用いる場合、スイートアーモンド由来のエッセンスではフランスのデザート「ブラマンジェ」の簡易版に近いものになってしまうため、杏仁を使用した杏仁豆腐の香りに近づけるためには原材料を確認し、ビターアーモンド由来のものを使うとよい。 ただし、あくまで疑似的であり、杏仁の漢方・生薬を含めた薬理作用はない。 また、香料は素材の特徴的な香りのみを抽出しているため、全般的にトップノート(最初に感じる印象的な香り)のエッジが強く、終始に渡って持続性があり、天然の香りとは異なる。

杏仁霜
杏仁霜と杏仁霜を溶いたもの

杏仁霜(中国語:シンレンシュアン/日本語:きょうにんそう)は、杏仁豆腐をはじめ、アイス、飲料、焼菓子、ケーキなどを作るために使用されるミックスパウダーである。 杏仁霜の原材料はメーカーよって多少の違いはあるが、基本構成は砂糖、粉飴、ぶどう糖、乳糖などがすでに加味されているのが特徴で、主要となる杏仁の他にコーンスターチ、全粉乳または脱脂粉乳、香りを補強するための香料などが含まれる。 したがって杏仁霜の用途は甘いもの全般に汎用される。

杏仁は油分が多く含まれるため、粉砕、乾燥させても、脱脂しなければサラっとしたドライパウダー状にはならない。 杏仁霜は、いわば現代のインスタント食品のような利便性のある商品として流通させるための品質や保管上の問題で、杏仁を脱脂し、加工の過程で失った風味などをその他の材料で補填・強化したのがはじまりである。

日本において杏仁霜はポピュラーなデザートとなった杏仁豆腐を手軽に作る上で基礎的な存在、特化した代表格的な存在となり、家庭や飲食店でも広く使用されている。 しかしながら「杏仁霜=杏仁豆腐」というイメージは日本で形成されたものであり、中国ではインスタントコーヒーのように即席で杏仁茶を嗜むために使われるため「杏仁霜=杏仁茶」であり、杏仁霜の商品イメージやデザインには杏仁茶が用いられる。

杏仁粉
南杏の『纯杏仁粉』(中国)
北杏の『纯苦杏仁粉』(中国)

杏仁粉(中国語:シンレンフェン/日本語:きょうにんこ)は、杏仁を100%原材料とし、杏仁の茶色い薄皮を除去したものを低温で焙煎してから粉砕したものである。 焙煎と同様、低温で蒸す製法もあるが、低温で加熱する目的は香りや栄養価の損失、油分との分離を防ぐためである。 杏仁粉は油分を多く含み、水では溶けにくくザラつくため、お湯で溶かして用いる。

中国では、脱脂せずに無添加、無漂白で製造されるピュアパウダーは一般的に「純杏仁粉」(纯杏仁粉:チュンシンレンフェン)とよばれる。 杏仁には多くの油分(約45~52%)が含まれているため、脱脂せずにそのまま粉末にしたものは粉が癒着しダマになりやすいため、見た目は粒子が粗く、淡い色を有しているのが特徴である。 サラっとした細かいパウダーは、脱脂(油分を抜く)を行うことで作れるが、本来の栄養価を大きく損ない、純白のものは漂白されている可能性があるとして好まれない。

杏仁粉は個人でも手作りされるため、甜杏仁(南杏)と苦杏仁(北杏)をブレンドして作られることもある。 市販品では、苦杏仁(北杏)を原料とした苦杏仁粉もあるが、それと比較して甜杏仁(南杏)の杏仁粉の方が一般的に多く流通している。

日本で流通している杏仁粉は甜杏仁(南杏)を原料としたものである。 砂糖などが加えられていないため、個々の好みによって杏仁の持ち味を生かした料理や飲料に幅広く用いることができる。 杏仁から杏仁粉を手作りする手間を省き、香料や杏仁霜に頼らずに本格的な杏仁豆腐を作る場合は杏仁粉がよい。

アマレット
ディサローノ・オリジナーレ (イルヴァ・サロンノ社)

アマレット(Amaretto)は、イタリア・ロンバルディア州ヴァレーゼ県のサロンノ発祥の歴史あるリキュールである。

伝統的な原材料は「杏仁」(アプリコットカーネル)だが、その他に桃仁、ビターアーモンド、アーモンドを使ったアマレットも存在する。 これらの香りは、いずれも杏仁豆腐に似た風味をもたらすベンズアルデヒドに由来する。 アマレットはアルコール度数21~28%(稀に30%)の酒で、蒸留酒に副原料を加えて味や香りを移したリキュールの一種である。 日本の梅酒や中国の杏露酒、フランスのルジェ・クレーム・ド・アプリコットもリキュールの一種だが、これらは果肉および果汁の味や香りに重点を置いたもので、アマレットと趣旨や方向性は異なる。

アマレットは、イタリアではアイリッシュコーヒーに加えたり、イタリアの伝統的なクッキー「アマレッティ」、デザートの「ティラミス」の風味付けや、カクテル「コッドファーザー」などに使われる。

大人味の杏仁豆腐を作るためにはアマレットを代用したり、既存の材料に加えたりするのもよい。

→主な記事:アマレット

多様性

  • 抹茶杏仁豆腐:抹茶は日本の茶道を代表するものであり、緑茶は生活において馴染み深いものであるため、そこから派生した多くの菓子やデザートが存在する。 緑茶を用いた場合、茶葉に含まれる苦みや清涼感を与えつつも甘味を打ち消すことなく調和し、後味にくどさが残らないのが特徴がある。 これらのデザートは海外でも日本の文化、伝統的なテイストを知るアイテムの一つとして比較的受け入れられている。 抹茶を使った杏仁豆腐は、中国を含め海外で営業している日本料理店や焼肉屋でも提供されている。 1960年(昭和35年)創業で福岡市博多区中洲に本社を置くラーメンチェーン「天然とんこつラーメン一蘭」は、2015年2月5日から「抹茶杏仁豆腐」の提供を開始した。 海外に展開する全8店舗(ニューヨークに3店舗、香港に2店舗、台湾に3店舗)でも提供している。
  • 杏仁ソフトクリーム:1962年(昭和37年)創業の横浜大飯店は、1996年5月から「杏仁ソフトクリーム」(杏仁雪糕)を販売している。 杏仁粉と生クリームを原料とし、甘味料として特定保健用食品「オリゴのおかげ」を使用している。
  • 杏仁豆腐クレープ:1978年(昭和53年)創業のエスニック雑貨店「チャイハネ」が展開するチャイティーカフェでは「杏仁豆腐クレープ」を提供している。
  • 奇跡のフルーツサンド:1954年(昭和29年)創業の担担麺専門店「想吃担担面」が展開する杏仁スイーツ専門店「天使の杏仁」のフルーツサンドにはクリームに杏仁霜の他、南杏、北杏を加えている。


ヌーベル・シノワ

山桃杏仁プディング『山桃杏仁布甸
萬珍樓 點心舗(神奈川・横浜中華街)

中国料理は世界三大料理の一つとされている。 中国ではデザートに関して「医食同源」「薬膳」的な概念があり、伝統的なものは質素であるため、その趣旨を理解できない他国の人々には、西洋的に華やかに映るものではなかった。

近年では、ヌーベル・シノワを基調とする風潮もあり、杏仁豆腐も飛躍的な革新を遂げてきている。 ヌーベル・シノワは、中国料理の新派として認知されているジャンルの一つで、盛り付け、食材や料理法においても幅広く取り入れるスタイルである。

高級中国料理店では、デザート部門のエキスパート(甜品师:ティェンピンシー)を専属で雇い、伝統的なスタイルと両立させつつ、斬新な杏仁豆腐や杏仁を使った多彩なデザートが生み出されている。

ギャラリー

  • 明治17年(1884年)創業「聘珍樓 横濱本店」:2022年5月15日に閉店まで日本最古の中国料理店
  • 明治25年(1892年)創業「萬珍樓 本店」:現存する日本最古の中国料理店


日本の中華デザート

関連項目