冷やし中華
冷やし中華(中国語:日式中华凉面/英:Hiyashi Chuka)は、中国の凉面をルーツとして日本で発展した冷製仕立ての麺料理で、日本の夏季の涼味として広く親しまれている麺料理である。 一般的には時季が限定されるメニューであるが、地域や店によっては通年で提供している場合もある。
具材
肉類
チャーシュー、蒸し鶏が使われる場合が多い。 家庭では手軽なハムやベーコンも使われる。 ゴマだれの場合、冷しゃぶを添えるバリエーションもある。
卵
黄色の彩りとして錦糸卵は定番。 錦糸卵にさらに固ゆで玉子や半熟玉子が添えられることもあり、コンビニやスーパーの商品の冷やし中華に見られる。 他では温泉玉子や生卵、中には目玉焼きをのせたものもある。 中華圏で日式中华凉面として作られるものには茹で玉子の代わりに台湾の味玉「滷蛋:ルーダン」が使われる場合がある。
野菜
緑の彩りとしてキュウリ、赤の彩りとしてトマトが定番。 他では茹でもやし。
キノコ
しいたけ・キクラゲ
海藻
わかめ。 他では海藻を原料とした透明な海藻クリスタルなどの海藻麺。
海鮮
クラゲ・エビ・蟹。 家庭では手軽なカニカマも使われる。
果物
スイカ・サクランボ・ミカン・パイナップルは家庭では子供に人気が高いが、店でも添えられる場合がある。 爽やかさを出すためにレモンなどの柑橘系も添えられる場合もある。
後かけ系
刻み海苔・白胡麻
市販商品
- セブンイレブン:直火焼きチャーシュー・きゅうり・錦糸卵・味付くらげ・わかめごま和え・紅しょうが
- ローソン:直火焼きチャーシュー・きゅうり・錦糸卵・半熟ゆで玉子・紅しょうが
- ファミリーマート:炙りチャーシュー・きゅうり・錦糸卵・半熟ゆで玉子・もやし・紅しょうが
- トップバリュ:焼豚・きゅうり・錦糸卵・半熟ゆで卵・トマト・わかめ・かに風味かまぼこ・グリーンリーフ
業態別の特徴
冷やし中華を提供する業種は多岐に渡る。 それぞれ業態は異なるが、その中で常備されている具材や他の料理に使われる食材を上手く利用するという特徴が共通として見られる。
中華料理店
自家製のチャーシュー、蒸し鶏が使われる。 また、冷菜の中華クラゲや、他の料理に使われるエビ、蟹、キクラゲ、椎茸、タケノコなどのが添えられる場合がある。
町中華や大衆食堂
自家製のチャーシュー、蒸し鶏、ハムが使われる。 鳴門巻きは麺類をはじめ、レトロ系の炒飯には細切りにして具としても使われるため、冷やし中華にも細切りにしたものが紅白の彩りとして添えられる場合がある。 五目そばに添えられる鳴門巻き、蒲鉾、伊達巻、固ゆで玉子や広東麺や中華丼などに使われる椎茸のうま煮やキクラゲを細切りにしたものや、うずら卵水煮が添えられることもある。 町中華やレトロな大衆食堂の「五目そば」は、五目中華とも呼ばれ、茶色い醤油系あんかけ五目そば(広東麺)とは異なる塩系スープで、幕末に江戸の太田庵(蕎麦屋)で生まれた「おかめ蕎麦」の具材をのせて中華風にしたような日本独自の麺料理である。
ラーメン屋
チャーシューをはじめ、海苔、メンマ、もやし、ワカメ、キクラゲ、味玉、辛ネギなど、通常メニューのトッピング具材が流用される。 チャーシューは細切りにせずに添えられる場合もある。
蕎麦屋
夏季には中華麺を使った冷やし中華を提供する蕎麦屋や日本蕎麦を使って「五目冷やし蕎麦」などのメニュー名で提供する蕎麦屋もある。 蕎麦を食べる前に酒を嗜む、粋な蕎麦食いの肴として、ざる蕎麦や花巻蕎麦に使われる海苔は「焼き海苔」、おかめ蕎麦などに使われる蒲鉾は「板わさ」、鴨南蛮の蕎麦なし「鴨ぬき」、天ぷら蕎麦の蕎麦なし「天ぬき」があるように、おろし蕎麦(大根おろし・辛味大根おろし)、きつね蕎麦(味付け油揚げ)、たぬき蕎麦(天かす)、わかめ蕎麦(わかめ)、山菜蕎麦(山菜やナメコ)、しいたけ蕎麦(椎茸うま煮)、鴨南蛮(鴨肉)などの具材も使われ、きつね蕎麦の味付け油揚げを細切りにしたものや蒲鉾の細切りが紅白の彩りとして添えられる場合がある。 おかめ蕎麦、五目蕎麦には椎茸のうま煮や蒲鉾の他、鳴門巻きも使われることもあり、同様に使われる。 蕎麦屋では付き物の天ぷらに使われる食材も応用して使われる。 中国のファミリーマートの商品には蕎麦の冷やし中華スタイル「日式荞麦凉面」も存在し、具材は錦糸卵、キュウリ、蟹カマが入っている。
冷やし中華のつゆ
醤油だれ
醤油ベースの甘酢は、1929年(昭和4年)、鈴木商店出版部から刊行された『料理相談』の「冷蕎麦」(ひやしそば)の項目に記載されている。 また、冷やし中華の元祖とされる揚子江菜館で使われている甘酢たれは、二代目が三杯酢を基に日本人の口に合うように考案したという。 このことから昭和初期には既に酢醤油だれが中華料理に使われていたことが伺える。 当時、物流システムが現代のように発展していた場合、醤油や酢、酒なども中国本場のものが使われ、当初の冷やし中華は本場のテイストが色強い正統派の中国料理になっていた可能性がある。
三杯酢
食品メーカーや作り手によってアレンジはされるが、醤油だれの特徴を主に支えている基軸の調味料は、醤油・酢・砂糖(三杯酢)である。
- ごま油やオイスターソースを少量加えることで中華テイストを上げる。
- 酢にリンゴ酢を使用する。
- まろやかな甘味を出すためにリンゴ果汁などを加える。
- 爽やかさを出すためにレモン果汁などの柑橘果汁を加える。
などの工夫・アレンジをしつつも、一般的に「冷やし中華のたれ」と理解できるような範囲内の味に作られている。 チューニングは微妙なもので、少しでも加減が違えば一般的な「冷やし中華のたれ」とは外れてしまう。 しかし、これらは特に日本独自のものとする「冷やし中華」を特徴付けるものではない。 冷やし中華は中国で「日式中华凉面」と呼ばれるが、中国人でもどことなく中国料理に繋がる味のニュアンスはわかるという。 例えば、キュウリを三杯酢とゴマ油で和えたものと、中国醤油の生抽・中国酢の鎮江酢・砂糖・ゴマ油で和えたものでは、味や風味は異なるものの、共通点は感じられるようなもので、これは調味料が中国のものか、日本のものかの違いでしかない。
土佐酢
冷やし中華が様々な業態の飲食店で提供され親しまれるようになった中で、知らず知らずのうちに日本人に馴染んだ要因として考えられるのは「かつおだし」である。 市販されている商品の付属のたれの多くに使われている。 これは、三杯酢に鰹出汁を加えた「土佐酢」にあたる。 冷やし中華は立ち食い蕎麦屋でも提供される庶民的なものであるゆえに、鰹出汁は当たり前といえば当たり前である。 現在、中国では日本の調味料が一般的に市販されているため、彼らが日本の冷やし中華(日式中华凉面)のたれを作る時に、液体の「かつおだし」や「蕎麦つゆ」を少量加えることで日本の冷やし中華を再現している。 最近では「日式」という言葉だけではなく、このような日本テイストに「和風」という言葉が使われたりもしている。 彼らが和風の特色として味で一番感じるのはそこかもしれない。
黒酢
黒酢は冷やし中華と相性が良く、酢醤油だれに使われる酢を黒酢に置き換えて酢醤油だれを作ったり、酢醤油だれが付属された市販の冷やし中華に黒酢を追加で多めにかけても美味い。 冷やし中華のたれに黒酢を使うのは決して目新しいことではないが、低価格中華料理チェーンで知られる日高屋は、黒酢を使っていることをアピールするため、あえて冷やし中華という名称を使わず「黒酢しょうゆ冷し麺」というメニュー名で提供している。
黒酢は玄米を原料としたもので、本来は陶製の甕を使って屋外で天然醸造される鹿児島の伝統的なものだったが、黒酢を使った健康食品、寿司ネタの〆鯖やコハダ、酢飯のシャリ酢に使われるなどで認知度も上がり、現在は伝統的なものと異なるが大手食品メーカーから一般向けに市販されているため、気軽に使うことが出来る。 また、黒酢冷やし中華のたれは市販もされている。
ゴマだれ
1906年(明治39年)以前から営業し、冷やし中華の元祖とされる揚子江菜館の四代目は「中華料理に、ピーマン、もやし、肉の細切りを麺にのせて胡麻だれをかけたものがあり、初代がまかないとして作っていた」という逸話を語っている。 これは上海料理の一つで上海では家庭でも作られる「三丝冷面」と同じである。 一方、1936年(昭和11年)に家庭食養研究会から刊行された『栄養と料理』にも「三丝冷面」が紹介されているが、こちらは酢醤油ベースになっている。
このゴマだれ(芝麻醤:白胡麻ペースト)は、中国北部、特に北京に見られる特徴的な食文化がルーツである。 日本でアレンジされた担担麺のように、ピリ辛ごま風味が四川料理の印象として日本人に定着しているためか、日本のウイキペディアでは「鶏絲涼麺」(チースーリャンメン:鸡丝凉面)が、「ゴマだれ冷やし中華」の源流としている。 鸡丝凉面は名が通っている料理であり、中国の他の地域でも作られるが、本場である四川省の鸡丝凉面は、棒棒鸡(バンバンジー)と同様で芝麻醤に頼ったものではない。 例えば、四川料理を日本人に合わせてエビチリなどを考案した陳建民の息子である陳健一は、料理番組「料理の鉄人」で初回から最終回まで「中華の鉄人」をつとめたが、彼のトレードマークは伝統的な製法で四川省成都市郫都区で製造されている天然醸造の郫県豆板醤(ピーシェントウバンジャン)であり、芝麻醤はほとんど使われていない。
北京と四川の大きな食文化の違いは火鍋でも顕著である。 北京の火鍋はモンゴルとも共通し、主にマトン(大人の羊)を用いる。 スープは端麗で、その代わりに濃厚な胡麻だれで食べる。 一方、四川の火鍋や重慶市(旧・四川省南東部の都市)では重慶火鍋で知られる火鍋は、唐辛子と香辛料を使った真っ赤で重厚な香味油(麻辣油)が鍋の表面を覆うもので、胡麻だれでは食べない。 中国内では「北京人は何でもゴマだれ」「四川の人は火鍋に何故ゴマだれを使わないのか」「四川省で直腸肛門科の病院が有名なのは唐辛子」など、北京と四川の人々の間で楽しい討論や激論が展開されるほどである。 実話と思われるエピソードでは、中国でも名の通った妥協をしない一流の料理人が北京でゴマだれに頼らない料理で勝負すると決意し、北京に店を開いたという。 彼は化学調味料も使わず、客がそれを自由に加えられるように備える程度の清廉なスタイルであったが、結局はゴマだれを使わなければ無理な状況に追い込まれ、ついに使うことにした。 この結果には「妥協したかもしれないが、妥協しない料理を作る人であることは変わらない」「北京だから・・・」など、料理人を叩く声は無かった。
塩だれ
新潟県三条市にある1933年(昭和8年)創業の「大黒亭本店」は、新潟5大ラーメンの一つである「三条カレーラーメン」の元祖ともいわれる老舗だが、名物の「カレー中華」だけでなく、一風変わった冷やし中華も名物になっている老舗である。 大黒亭本店は中華そばを中心にカレー中華、野菜中華、もやし中華、味噌ラーメン、チャーシューメン、ワンタン、餃子などの定番メニューに絞られ、決してメニューは多くない庶民的な店である。 店内には「大黒亭オリジナル塩味冷やし中華」が手書きで掲げられている。 どこかレトロな町中華の五目そばにも似た装いで、スープともいえる特製だれは酸味が少ない、あっさり系の塩味で、練りわさびが添えられているのが特徴。 大黒亭は本店の他、居島店、松屋小路店があるが、本店だけが練りわさびで他は練り辛子になっている。
味噌だれ
一般的ではないが、主に味噌ラーメン専門店で夏季限定で提供される。
アクセント
和辛子
冷やし中華に練り辛子は定番中の定番といってよい。 どことなく、それぞれの刺身とワサビの楽しみ方に似ていて、辛子をたれに好みの量で溶かしながら程よいキレを楽しむ者もいれば、添えられた辛子を箸に取り、直に麺と共に食べ、鼻先をぶつけたような刺激を楽しむ者もいる。 辛子を溶かし切った辛子酢醤油で提供されないからこそ、味わえる楽しみ方で、この組み合わせを好む人には市販の小袋の辛子の量では物足りないと思う人も多いだろう。
冷やし中華は昭和初期には存在していたことは文献で明らかになっているが、中華料理に辛子を使用する歴史はかなり古い。 1909年(明治42年)3月25日、日本家庭研究會から刊行された柴田波三郎・津川千代子の著書『日本の家庭に應用したる支那料理』にそれを見ることができる。 この時代は練り辛子を西洋辛子と呼んでいるが和辛子と変わらないものと思われる。 チャーシューの辛子添えは、現在でも町中華でチャーシューで酒を嗜む玄人客の肴の一品として見られる。 当時のチャーシューの貴重なレシピを交えて記載するので個人で再現するなどして楽しんで頂きたい。
“ 叉焼の拵へ方 【 醤肉(ジャンロー)】
まづ百匁位の豚肉を丸のまま煮たった湯の中に入れ一時間程茹でます その茹でた汁を匙に二杯くらい残して鍋におき そこへ醤油三勺を入れ香りをつける為に 葱を五寸位に切って入れ 皮をむいた生姜と とうがらしを二つ程入れて煮る 汁がなくなって焼きつく位まで肉をまわしながら煮てゆき それをうすく切って 皿に盛り 西洋からしを練って 附け合わせます ”
『日本の家庭に應用したる支那料理』(明治42年)
※匁(もんめ:1匁=3.75g)※勺(しゃく:1勺=約18ml)※寸(すん:1寸=約3cm)
紅しょうが
紅生姜は梅干しを作る工程で梅を塩漬けにした後に生成される副産物の梅酢にショウガの根茎を漬けたものである。 冷やし中華に紅生姜はペースト状の和辛子とは異なるが同じく定番中の定番といってよい。
盛り付け
冷やし中華の具材は、細切りで放射状に盛りつけるのが、冷やし中華として多くが連想するポピュラーなスタイルである。 日本では冷やし中華の元祖とされる揚子江菜館の五色涼拌麺に見られるが、平盛りではなく個性的な高盛りになっている。 中国では、日本の冷やし中華のルーツである「凉面」は、小吃(シャオチー:手頃な軽食)の類であり、食べる時には和えるため、盛り付けをこだわるか、こだわらないかは、店のスタイルやスペックによってピンキリである。 日本のラーメン屋でも「意識高い系ラーメン」などと言われるスタイルや、それと対比した大衆スタイルで親しまれるものもあり、この事象は日本でも見られるように中国に限ったことではない。 しかし、この細切り放射状の盛り付けは、他の中国料理にも多用される伝統的なもので、日本人であれば刺身を盛り付けるスタイルを知っているのと同様、中国人のほとんどが知っているもので、日本で生まれたものではない。 特に直線的で繊細な細切りは中華包丁を巧みに用いる中国料理の技術である。 揚子江菜館と並び、冷やし中華の元祖とされる龍亭は、中国出身の料理人のアドバイスによって具材を細切りにしている。 近年、中国は世界や日本でも見られるインターネットの流れ同様、個人が綺麗な盛り付けをしてネット上にアップしている。 しかし、彼らは盛り付けに対して、特に日本の冷やし中華を意識しているわけではない。
文献
料理相談
1929年(昭和4年)9月、鈴木商店出版部から刊行された安東鼎(あんどう かなえ)の著書『料理相談』には「冷蕎麦」(ひやしそば)なる料理があり、そこには『 茹でたシナそばに、酢・砂糖・氷をまぶす。具材は、叉焼・胡瓜・酢漬けラッキョ・筍をのせる。冷スープ・醤油・酢・胡椒をかける。 』と記されている。 安東鼎は『新家庭日記 大正十六年』(大正10年・1921年10月)、『新家庭日記 昭和三年』(昭和2年・1927年)、『精進料理』(昭和20年・1945年)、『世界の味』(昭和37年・1962年10月)などの料理本の著者であり、鈴木商店は現在の「味の素」である。
昭和4年といえば、冷やし中華発祥の店とされる「揚子江菜館」や「龍亭」が、“ 冷やし中華を世に送り出したとされる年以前 ” である。 しかし、『料理相談』に記述されている「冷蕎麦」は明らかに冷やし中華を指している。 揚子江菜館は1906年(明治39年)以前から「支那そば」として営業していたが、時代背景から考察すると、昭和初期には既に中国人が経営する中華料理店の間では存在していた可能性が高い。
栄養と料理
1936年(昭和11年)12月 、家庭食養研究会から刊行された創刊号雑誌『栄養と料理』第2巻・第12号の連續講座・其ノ六「しゆうまいと支那そばの作り方」を随筆した山田政平(やまだ まさへい:1887年 - 1954年)は、その中で「三絲凉麵」(サンスーリャンメン)という料理を紹介している。 創刊誌である本書には、当時すでに支那料理としてトマトを使った料理も掲載されている。
山田政平は『四季の支那料理』(昭和11年・1936年)、『素人に出来る支那料理』(昭和16年・1941年9月)、『中華料理の作方160種』(昭和22年・1947年)、『飲食雑記』(昭和28年・1953年9月)などの料理本の著者であり、中国清朝時代の食通として知られる袁枚(えんばい)が晩年1792年(乾隆57年)に刊行した書物『隨園食單』(ずいえんしょくたん)の訳注を行った人物である。
“ 三絲凉麵 サンスーリャンメン
材料 ベーコン三二瓦(八匁)胡瓜半本、鳰肉四〇瓦(十匁)ねぎ一本、酢、醤油、味の素
作り方 切麵を茹でて水にさらし、水氣を切って置く。 鳰肉は茹でるかむすかして絲に切り、黄瓜、やきぶたも共々絲に切る。 黄瓜には鹽をふつて後鹽抜きしておく。 次に酢、醤油、砂糖をあわせ、薑の絞汁を加へて麵にかける。”『栄養と料理』第2巻・第12号 - 連續講座・其ノ六
※瓦(ぐらむ:1瓦=1g)※匁(もんめ:1匁=3.75g)※切麵(チェーミエン:中華麺)※鳰肉(鶏肉)※鹽(塩)※薑(生姜)
中国
起源
冷やした麺料理『凉面』(リャンメン)は「过水面」とも呼ばれ、古くは「冷淘」とも呼ばれていた。 冷淘は、『唐六典』(全30巻:713年 ‐ 741年)にも記されている。 起源は、中国の歴史上に存在する422人の皇帝の中で、唯一の女帝であった武則天(ぶそくてん:在位 690年10月16日 - 705年2月22日)が唐王朝に入宮する前に、恋人と二人で麺を冷やすという新しい食べ方を考案したのが始まりとされている。
唐王朝の第2代皇帝である太宗(たいそう:在位 626年9月4日 - 649年7月10日)の妻・長孫皇后(ちょうそんこうごう)が病で636年7月28日、36歳の若さでこの世を去った後、山西省の資産家で唐王朝の創業に貢献した政治家である武士彠(ぶしやく)の娘であった武珝(のちの武則天)は側室として14歳の若さで宮廷入りしなければならなかった。 しかし、彼女は入宮する前、常剑峰という幼なじみの恋人がいた。
武珝が恋人と一緒に山西面を食べている時に、二人で舌をヤケドしたのがきっかけとされる説もあるが、現在も冷製麺料理として残っている「夫妻米凉面」の逸話にヤケドのくだりはない。 この山西面とは、山西の伝統技法の麺を指し、山西省は麺発祥の地、麺の故郷とされ、多種多様な麺が存在する。
武則天は、前漢の初代皇帝、劉邦(りゅうほう)の皇后であった「呂雉」(りょち:紀元前241年 - 紀元前180年8月18日)、清朝末期の「西太后」(せいたいごう:1835年11月29日 - 1908年11月15日)と共に「中国三大悪女」に数えられるが、伝承は若き頃の健気な武則天の姿と、心優しい店主の姿が描写されている。
夫妻米凉面
伝承は、武則天が宮廷入りする前の時代、彼女の故郷(四川省・広元市)に遡る。 武則天は、幼い頃は「武珝」という名で、常剑峰という幼なじみがおり、二人はよく川で泳いでいた。 渡し場には麺屋があり、二人は必ずそこで麺を食べていた。 時間が経つにつれ、店主は彼らを友人のように扱い、よく一緒に座っては麺の作り方や食べ方のコツを話し合う仲になっていた。 夏真っ盛りになると、暑さのためか麺を食べる人はほとんどいなかった。 二人は夏に冷たい麺があればどんなにいいだろうと思い、夏でも熱くない、麺好きを満足させる麺料理を作ろうと考え、再び夏が訪れた時、麺屋の主人にアイディアを伝え、ついに米を使った美味しくベタつかない米凉面が開発された。
麺屋の主人は若い武珝と常剑峰のカップルをからかい、「この麺は夫妻米凉面と呼ぶべきでしょう」と言った。 この日は武珝の誕生日とも言われている。 その話が広まり、夫妻米凉面は地元の小吃(シャオチー:手頃な軽食)としてみんなに愛されるようになった。 その後、武珝は宮中に入り、皇后になったが、彼女はこの麺を忘れることなく、誕生日のたびに宮中の料理人に命じて作ってもらったという。 その後、人々は「夫妻米凉面」から「女皇蒸凉面」と呼ぶようになった。
簡単に作れるように見えるシンプルなものだが、本格的な女皇蒸凉面を作るには、広元の地元の水とその独特な気候を利用するしかないと言われている。 麺は小麦粉ではなく、最高級の米を一日水に浸し、それを適度なペーストに挽き、ごま油や植物油を塗った型に綿布を敷いて流し入れ、 それを蒸し器で蒸し、冷ましてから麺状に切って冷たい状態で提供するもので、これにより、麺はモチモチとした歯ごたえのある自然な仕上がりになる。
タレは一般的に、醤油、酢、唐辛子、ラー油、ごま油、砂糖、胡椒、塩、チキンエキス(鶏がらスープの素)、うま味調味料、刻みネギ、おろし生姜、蒜水(おろしニンニク+水)で作られている四川風で、ラー油と蒜水は個人の好みで増減させることができる。 また、具材はもやしなど好みの野菜を加えたりもする。
武則天の故郷である広元市の路地や街角には凉面店があり、値段は低価格(3元から8元程度)で提供されている。 女皇蒸凉面は、広元凉面(广元凉面)とも呼ばれ、現在も広元名物のご当地グルメになっている。
槐叶冷淘
唐王朝の盛唐(唐詩の黄金期)時代の有名な詩人である杜甫(とほ:712年2月12日 - 770年)の詩に『槐叶冷淘』がある。 杜甫は、李白(りはく:701年5月19日-762年11月30日)と共に中国詩歌史上でも最高の存在とされる中国古代の二大詩人として、李白と杜甫の二人を総称して「李杜」とも呼ばれる。 杜甫の作品は最終的に中国の古典文学と現代日本文学に大きな影響を与えた。
この槐叶冷淘は、市場に登場したばかりの新麦の小麦粉と槐叶の葉を使って麺を打ち、茹でた後、水で冷やした緑色の涼し気な麺を詩っている。
青青高槐叶,采掇付中厨。新面来近市,汁滓宛相俱。
入鼎资过熟,加餐愁欲无。碧鲜俱照箸,香饭兼苞芦。
经齿冷于雪,劝人投此珠。愿随金騕褭,走置锦屠苏。
路远思恐泥,兴深终不渝。献芹则小小,荐藻明区区。
万里露寒殿,开冰清玉壶。君王纳凉晚,此味亦时须。
槐叶冷淘は、中国・唐の時代に始まったという。 唐の制度では、夏の宮廷で役人に出される食事の一部として規定されていた。 時が経つにつれ、宮廷料理は次第に市場に広がり、槐叶の葉と小麦粉を組み合わせた「槐叶冷淘」は「翡翠面」と呼ばれるようになり、都市部と農村部を問わず、人々の夏の味覚として定着していった。 槐叶の葉を使った冷やし麺の流行は、宋王朝(そう:960年 - 1279年)の時代まで続いたという。
北宋王朝の政治家で文豪である蘇軾(そしょく:1037年1月8日 - 1101年8月24日)や明朝末期から清朝初期の文人である銭謙益(せんけんえき:1582年10月22日 - 1664年6月17日)の作品にも登場する。
槐叶冷淘は、麺の太さも様々で日本に見られる「冷やし和え麺」、「冷やし中華」、「冷やしラーメン」、「ざる蕎麦」のようなスタイルが存在する。 槐叶(和名:エンジュ)は、食用や漢方薬に使用される中国原産のマメ科の植物(学名:Styphnolobium japonicum L.)で、8世紀(701年 - 800年)に日本へ渡来した。
帝京歳時紀勝
清朝時代に潘荣陛(生没年不詳)が著した『帝京歳時紀勝』には「京师于是日家家俱食冷淘面,即俗说过水面是也」(この日、都の人は皆、冷淘面を食べ、俗に过水面と呼ばれる)と記されている。 現在、冷淘面という言葉は使われなくなったが、北京の人は今でも过水面のことを同じように呼んでいる。 麺や器は冷たい井戸水を使って冷やしていた。
潘荣陛は大興(現在の北京市大興区)の出身で、清の第5代皇帝・雍正帝(ようせいてい:在位 1722年12月27日 - 1735年10月8日)の時代の1731年から朝廷に仕えた。 その後、宮中の蔵書にも気を配るようになり、宮中の書籍の製作・販売を取り仕切る監督者の立場になった。 1746年(乾隆10年)に引退し、その経験によって『工务纪由』、『月令集览』、『昏仪便俗』、『读札须知』、『旷怀闲草』などを著した。 また、この本は1年の1ヶ月目から12ヶ月目までを月別に季節とそれにまつわる風習、宗教活動、食べ物、野菜や果物、民俗芸能や遊びなど、全93項目を月ごとに記録するために書かれたもので、それを連載記事としてまとめたのが『帝京歳時紀勝』である。
ことわざ
『冬至馄饨夏至面。吃过夏至面,一天短一线』
夏至麺
中国では『夏至面』(シィアヂィーミィェン/簡体字:夏至麵)と呼ばれる風習がある。 太陰暦の5月(太陽暦の6月22日)は1年で最も昼が長い日(夏至)として、周王朝(紀元前1046年頃 - 紀元前256年)時代にはすでに神を祀る儀式があり、国の疫病や厄年や人々の飢えをなくすと考えられていた。 夏至面は、漢民族の風習で、二十四節気の一つである夏至の節句に凉面(涼麺:リャンメェン)を食べる習慣を指し、現在も中国全域で親しまれている習慣である。 諺(ことわざ)では『冬至餛飩夏至面』がある。 つまり「冬至に餃子やワンタンを食べ、夏至に麺を食べよ。」という意味である。 夏至の時期には収穫されたばかりの新麦を製粉した新物の小麦粉が市場に出回り、夏至の麺は最も香りのよい時期になる。 また、この時期に冷たいものを食べることで暑さ軽減し、食欲をそそることで健康(夏バテなど)を損なわないという趣旨がある。
地域性
中国では夏至面もさることながら、凉面は地域によって味や特徴が異なるものが食べられている。
→参考:中国の主な凉面
日本
揚子江菜館
東京都千代田区神田神保町にある1906年(明治39年)創業の揚子江菜館は、神田で現存する最古の老舗であり、「冷やし中華」発祥の店とされている。 揚子江菜館は明治39年以前から「支那そば」という店名で営業していたが店名を改めた創業年にしている。 創業者で初代の周所橋(しゅうしょきょう)は、魯迅、蒋介石、周恩来と同じ浙江省寧波の出身で寧波華僑総会、神田中華組合を創立し、初代会長を務めていた。 店は大正12年(1923年9月1日)に起きた関東大震災を経て、昭和初期に西神田から現在の神保町すずらん通りに移転した。 二代目・周子儀(しゅうしぎ)、三代目・周祖基(しゅうそき)と継承され、四代目・沈松偉(ちんしょうい)氏の体制で現在に至る。 揚子江菜館では五色涼拌麺を通年で提供している。
時代背景
清朝末期(1860年~1890年)、清国では弱体化した国力再建のため、西洋近代文明の科学技術を導入しようと「洋務運動」が起きた。 日本の明治維新を手本にするべく、日本や西洋の学問を学ぶために多くの中国人留学生が日本へと渡ってきた。 当時、革命家として留学生の間で英雄的存在だった孫文、魯迅、周恩来も学生街の神田で学問を学んでいた。 神田はその基点となり、留学生は明治37年(1904年)には1,000人に達し、明治後期には5万人もの留学生が日本へ訪れていた。 淡泊な日本食があまり口に合わない彼らの空腹を満たし、安くて栄養のある故郷の味を提供しようと中華料理店が続々と出来ていった。 東京神田区は100店を超える中華料理店が連なり中華街さながらであった。 揚子江菜館の初代は貧しくお金のない留学生には「都合のいいときでいい」と料理を振る舞っていたという。 悲劇の女性革命家として知られる清朝末期の革命家、秋瑾(しゅうきん:1875年11月8日 - 1907年7月15日)も留学生時代に訪れていた。
五色涼拌麺の誕生
元祖冷やし中華とされる五色涼拌麺(ごもく冷やしそば)は、揚子江菜館・二代目が1933年(昭和8年)に考案したものである。 初代の息子長男で二代目である周子儀(しゅうしぎ)は生まれも育ちも日本であり国籍も日本人となった。 タレは三杯酢を基に日本人の口に合うように考案したという。 この甘酢は、揚子江菜館のメニューである古老肉(すぶた)、芙蓉蟹(かに玉)、肉丸子(肉団子の甘酢掛け)、唐醋子鶏(ひな鶏の唐揚げ甘酢掛け)などの甘酢あん料理のベースにもなっている。 二代目は当時の神田区連雀町(現・千代田区神田須田町と神田淡路町)にあった明治14年(1884年)創業で現在も老舗蕎麦屋で知られる「神田まつや」(神田須田町)の蕎麦が好物で、「中華そば」で「ざる蕎麦」のような料理をという着想から考案したという。 盛り付けは当時の神保町からも見えた富士山に見立てて「雲を頂く富士山の四季」をイメージして高盛りにした。 具材は、チャーシュー、キュウリ、メンマ、糸寒天、錦糸卵の五色で彩り、チャーシューで春の大地、キュウリで夏の新緑、煮込んだメンマで秋の落ち葉、糸寒天で冬の雪、錦糸卵で富士山の頂上にかかる雲を表現している。 他に絹さや、海老、しいたけが添えられ、中にはウズラの卵と肉団子が忍ばせてある。 麺は甘酢たれと絡みやすいように仕上げた細麺の卵麺が使われている。 時代・歴史小説作家の池波正太郎(大正12年:1923年1月25日 - 1990年5月3日)は、二代目・揚子江菜館へ足繁く通った常連客の一人で、彼のエッセイにも登場する。 日本酒が好きだった池波流の食べ方は、焼売と五色涼拌麺の具を肴にして酒を飲み、〆に麺を頂くという食べ方だった。
龍亭
宮城県仙台市青葉区にある1931年(昭和6年)創業の中国料理 龍亭は、揚子江菜館と並んで「冷やし中華」発祥の店とされている。 創業者で初代の四倉義雄(よつくら よしお)は、明治29年(1896年6月15日)に起きた明治三陸地震による津波被害の記憶から、石巻市から地盤の固い仙台市内へ移住した。 当初は和菓子職人をしていたが、時代の求めに応じて食料品店を開き、その後、支那そば(中華そば)屋になった。 四倉義雄は、仙台支那料理同業組合(現・宮城県中華飲食生活衛生同業組合)の組合長を務めていた。 四代目・四倉暢浩(よつくら のぶひろ)氏の体制で現在に至る。 龍亭では涼拌麺を通年で提供している。 また、仙台市も他の地域と異なり、冷やし中華を通年で提供している。
時代背景
昭和12年(1937年)7月7日、中国の北京郊外の盧溝橋(ろこうきょう)で夜間演習中の日本軍が兵1名の行方不明から中国軍(中国国民革命軍第二十九軍)と武力衝突した「盧溝橋事件」(中国:七七事变)が勃発した。 余談だが7月7日は、のちの『冷やし中華の日』である。 1937年7月7日夜、北京市豊台区に駐屯する支那駐屯軍(大日本帝国陸軍の駐屯軍)の支那駐屯歩兵第一聯隊第三大隊第八中隊が盧溝橋近辺の河原で夜間演習中に実弾を撃ち込まれ、兵士が一名行方不明となった。 のちに行方不明の兵士は発見されたが、散発的な射撃があり、翌朝、日本軍・第三大隊は中国軍が駐屯する宛平県城(現・北京市南西部)を攻撃した。 その後、9日停戦協定成立、中国軍責任者の処罰が決定された。 しかし、日本政府、軍部は中国側の計画的な武力抗日として11日以降に渡る派兵をし、のちの日中戦争へ拡大することになる。
日中戦争の火蓋が切られんとしていた当時、仙台はのんびりムードであったという。 仙山線(仙台-山形間:現・JR東日本)の開通を受け、近隣都市から仙台への観光客や出稼ぎ人口が増えるとともに、外食産業も大いに活性化した。 しかし、冷房がない時代の暑い夏に熱くて油っこい支那そば(中華そば)は敬遠され、店はどこも閑古鳥であった。 この厳しい現状の打開策、その命綱は組合長の四倉義雄に託されることとになる。
涼拌麺の誕生
元祖冷やし中華とされる涼拌麺(りゃんばんめん)は、龍亭・初代が1937年(昭和12年)に考案したものである。 初代・四倉義雄の記した資料には「昭和十二年、全国の業界に先駆けて、涼拌麺を開発し・・・」という記録が残っている。 当時の中華料理店では、現代とは違い冷房などもなく、油っこく、熱いというイメージの中華料理は敬遠されがちで、夏場の売り上げの落ち込みは厳しくとても深刻なものだった。 そこで暑い中でも食べられる冷たい麺料理の開発に取り組み、夏バテ防止に栄養のバランスを考え、野菜をふんだんに使い、食欲増進に酸味を加え、試行錯誤の末に考案されたのが凉拌麺である。 初代の四倉義雄は仙台支那料理同業組合のメンバーを集め、考案した凉拌麺を披露したことが始まりとされる。 当初の具材は、茹でキャベツ、塩もみキュウリ、スライスしたニンジン、チャーシュー、トマトを盛ったものだった。 当時、支那そば(ラーメン)が1杯10銭に対して涼拌麺は25銭であったことから庶民的な食べ物ではなかったと思われる。 また、初代のレシピそのままで涼拌麺を再現したことがあったが、その味はとても酸っぱくて、塩っぱかったと四代目・四倉暢浩氏は語っている。
消滅と復活
初代の四倉義雄が生み出した涼拌麺は、戦中の配給制度、食糧難や物資不足の影響を受けてメニューから姿を消すことになる。 昭和20年代後半、戦前の組合は「仙台中華麺業組合」として再結成され、涼拌麺のPR活動に取り組み、発売開始を祝い、「涼拌麺」と書かれたのぼりを掲げてパレードも催され、仙台の多くの中国料理店で味わえる夏の風物詩になったのである。 龍亭は、1965年(昭和40年)まで初代の涼拌麺を踏襲していた。 1964年東京オリンピック(昭和39年10月10日 - 10月24日)の時期、龍亭で働いた中国出身の料理人の中に、具材の千切りを提案した人がいたという。 細長い麺と共に味わうため、具も細長く切った方が調和し、食べやすく、何より美味しいということで、この調理法を採用した。 現在の具材は、錦糸卵、チャーシュー、キュウリ、ハム、蒸し鶏、クラゲを別皿で提供するスタイルになっている。 これは盛りつける時間を省いて、客を待たせない策として講じられたが、結果的に客が具を酒の肴にしたり、個々で好き好きで楽しめるようになっている。 タレは、生絞りの柑橘果汁を使用した醤油ベースと胡麻ベース(芝麻醤)の2種類から選べる。
地域性
冷やし中華と冷麺
冷やし中華という呼称は今や全国区ではあるが、関西を含め、西日本では「冷麺」と呼ぶ地域が多い。 一方、東日本では冷麺といえば韓国冷麺というニュアンスが強い。 冷麺という呼称が土着した地域であれば、冷麺といえば当たり前に冷やし中華と同様のもの、もしくは中華麺を使った冷製のものを思いつくが、他の地域から訪れた人々の中には勘違いする場合も未だにある。 メニューには丁寧に写真が載ってあり、その時点で韓国冷麺とは違うものと理解し、明らかに見た目が冷やし中華であったとしても、何か違うものかもしれないという期待感から注文し、結果ただの冷やし中華だったという流れである。 大阪国際空港(伊丹空港)内の店でも冷麺として提供されている。 同じ呼称でも、岩手の盛岡冷麺や大分の別府冷麺は韓国冷麺の系統である。
冷めん
京都府京都市北区にある1939年(昭和14年)創業の中華のサカイ本店は、「冷めん」というメニュー名で冷やし中華を提供している。 京都で冷麺と言えば真っ先に挙げられる老舗である。 韓国冷麺と区別するために「冷めん」とした。 創業当時は喫茶店で戦時中には洋食屋だったこともあり、その名残りで昔ながらのオムライスやクリームソーダなども隠れた人気メニューになってる。 戦後に中華料理店となり、1953年(昭和28年)の開発当初、具材は海老や錦糸卵なども使っていたが、初代が研究を経てハム・キュウリ・刻み海苔か、チャーシュー・キュウリ・刻み海苔の2種類のみになった。 麺は初代と製麺所が研究を重ねて開発した太麺の特注麺が使われている。 初代のスタイルを踏襲した二代目・土田尚紀氏で現在に至る。 中華のサカイでは冷めんを通年で提供している。
日本のウイキペディアには『創業時より・・・ゴマだれを使った「冷麺」』と記載されている。 その影響からか、ネット上ではゴマだれと書かれている記事が見られる。 「ゴマだれ」という先行情報と先入観、色が少々似ている点、濃厚さで錯覚する人もいるかもしれないが、しかし胡麻は使われていない。
再現
※下記はあくまで、ゴマだれか否かを簡易的に示したものであり、早朝からの仕込みを行い、手作りの料理やスープを提供している「中華のサカイ」とは異なります。 胡麻と感じるか感じないかの実験や個人の好みで調整して冷やし中華を楽しむものとしてお使いください。
- マヨネーズとマスタードを混ぜる。ツーンとくるのが好きな人は和辛子でもよいので好みの量を入れる。
- 市販の豚骨ラーメンのスープの素(鶏ガラを含んだ濃縮ペースト)を加減して合わせる。※一人前に対して全部は必要ない。
- スープの素とマヨーネーズと辛子のバランスを好みの量で最終調整する。
- 酢を足して好みの酸味に調整する。
- ゴマだれのように仕上がったのではないだろうか。
基本構成は、マヨネーズのまろやかさ、辛子のキレ、酢の爽やかさを絶妙に調整した三点バランス、そして出汁となるのがスープである。 芝麻醤(白胡麻ペースト)を主としたバンバンジーのようなタレではない。
呉冷麺
広島県呉市にある1955年(昭和30年)創業の珍来軒は、「呉冷麺」発祥の店として知られている。 呉市中通でラーメン屋台として始まり、当初の看板メニューはワンタン麺であった。 「冷麺に中華麺を使えば、冷麺ではなく冷やし中華になる」という着想から考案したという。 具を少なくし、麺の量を多くし、スープは飲み残しがないように適度の量にするというコンセプトで呉冷麺は誕生した。 具材は、キュウリ、チャーシュー、海老、固ゆで玉子が添えられ、麺は平打ち麺の特注麺が使われている。 呉冷麺は、タレというよりはスープであり、鶏ガラ8割・豚骨2割の醤油ベースに、見た目では赤くないが唐辛子の辛さを効かせ、酸味を抑えているのが特徴である。 店内には「冷麺の食べ方」なる指南もあり、卓上には酢辛子(唐辛子を漬けた酢)と黒酢が用意され、味変を楽しめるようになっている。 初代のスタイルを踏襲した二代目・檜垣巌(ひがき いわお)氏で現在に至る。 珍来軒では呉冷麺を通年で提供している。 また、冬季は温かいミニスープも共に添えられる。 現在、呉冷麺は呉市内の多くの店で提供されるご当地グルメになっている。
普及
だい久製麺
宮城県仙台市青葉区に本社を置く1960年(昭和35年)創業の株式会社「だい久製麺」(だいきゅうせいめん)は中華料理として食されていた「涼伴麺」を『中華料理店 龍亭』協力の下、家庭向け、また仙台の人々の好みにアレンジして商品開発し、『元祖だい久 冷やし中華』の商標で国内初の「家庭向け冷やし中華」を発売、反響を呼んだ。 麺を包装後に蒸気処理した生麺は当時の夏場商品としては、業界の危機を救うほど画期的なもので、冷えても固まらない液体スープ付きの即席性が人気を呼び、宮城県下に一躍ブームをもたらした。 初代社長・大久康は、その後「冷やし中華」の商標をフリーにした。 だい久製麺は、初代が戦前営んでいた蕎麦屋「やぶそば だい久支店」をルーツとし、戦後の1949年(昭和24年)に会社を設立、蕎麦やうどんなどの麺類、めんつゆの製造を行い、当時は配給用の茹で麺の委託加工を行っていた。 昭和53年には日本初のストレート麺つゆ「そば屋の味」(瓶)を販売するなど家庭用・業務用・量販店向けの商品へと発展、現在に至る。
マヨネーズ
東海地方
愛知県名古屋市中区に本社を置く1960年(昭和35年)創業の寿がきや(現・スガキコシステムズ株式会社)は、冷やし中華にマヨネーズを使った発祥とされている。 創業当初は甘味処「甘党の店」として始まったこともあり、その名残りであんみつやクリームぜんさいなども提供している。 1948年(昭和23年)からラーメンを提供すようになり、東海地方では「スガキヤ」として誰もが知る大規模チェーンに成長し、現在に至る。
- 1957年頃(昭和32年):冷やしたラーメンのスープに酢とマヨネーズを溶かして提供した「冷しラーメン」が始まりとされる。
- 1965年頃(昭和40年):冷しラーメン専用のスープを使用し、マヨネーズは具材の上に添えて提供するようになった。
- 1986年頃(昭和61年):冷しラーメンとは別でマヨネーズの小袋付きになった。 現在のスタイルも同様である。
山形
スガキヤ発祥説は根強く、東海圏は明らかにその影響下にあった可能性も高い。 しかし、「冷やし中華&マヨネーズ文化圏」ともいえる東海圏から飛び地である山形、年配者でもマヨネーズを使う習慣を踏まえれば、この説は東海圏のみとして考えるべきだろう。 山形はラーメンの消費は日本一である。 来客者をもてなすためにラーメンを出前する土地柄でありつつ、「為せば成る、為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり」の名言で知られる江戸時代屈指の名君と称された米沢藩主・上杉鷹山(うえすぎ ようざん/寛延4年7月20日:1751年9月9日 - 文政5年3月11日:1822年4月2日)公の教えも少なからず持ち合わせている時代である。 当時の食事は質素で淡泊だったかもしれない。 冷やし中華にマヨネーズをかけることで御馳走に早変わりしたのかもしれない。 この文化の発祥は東海圏とは別で考えるべきである。
アンケート
2014年7月25日、Jタウンネットは「冷やし中華にマヨネーズをかけますか?」の全国の集計結果を発表した。 2014年7月2日~24日にかけて1,558人を対象に「いつもかける」「時々かける」「ありえない」の3択で読者にアンケート調査を実施した結果、「いつもかける」40%、「時々かける」26%、「ありえない」34%という結果になった。 都道府県別で観た場合、「いつもかける」が高かったのは長野で78%、山形、福島、茨城、山梨、岐阜、愛知、三重、滋賀、奈良、大分の11県は「いつもかける」が50%以上だった。
2021年6月16日、ウェザーニュースは「冷やし中華にマヨネーズをかける割合」の47都道府県別ランキングを発表した。 2021年6月11日~12日にかけて8,302人を対象にアンケート調査を実施した結果、愛知70%、三重67%、岐阜64%の順で東海地区がトップ3に並び、続いて山形57%で4位、滋賀54%で5位。 この上位5県は県民の過半数がマヨーネーズを使うという結果になった。 他、大阪39%で12位、東京12%で40位、福岡9%で47位であった。
冷やし中華はじめました
冷やし中華全線
冷やし中華全線(2015年) | |||||
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那覇 3月17日 | 福岡 4月21日 | 仙台 5月05日 | |||
鹿児島 4月01日 | 広島 4月21日 | 金沢 5月08日 | |||
東京 4月19日 | 大阪 4月21日 | 新潟 5月16日 | |||
名古屋 4月20日 | 高松 4月23日 | 青森 5月31日 | |||
静岡 4月20日 | 宇都宮 4月29日 | 札幌 6月02日 |
2015年4月17日、東洋水産株式会社と株式会社ウェザーマップは、チルド麺の冷し中華をはじめとした商品のキャンペーンの一環として、当時の冷し中華の始め時を「マルちゃん冷し中華予報」として、キャンペーンサイトに公開した。 東洋水産は一日の最高気温が25℃以上の、一般的に夏日と言われる日より前から、冷し中華が売れ始めることに着目し、気象状況と冷し中華の関係を気象会社ウェザーマップと組んで分析した。
暑くなると無性に食べたくなる冷し中華は、一般的に冷し中華という言葉から7月、8月を連想される人が多いが、消費動向と気象状況の相関性を分析した結果、実は冷し中華の始め時は、4月下旬頃からであることが判明した。
冷やし中華の日
日本
7月7日は『冷やし中華の日』の日である。 1995年、冷やし中華の愛好者らによって日本記念日協会に登録された。 7月7日は二十四節気の「小暑」となることが多く、冷やし中華が美味しい季節を迎えることが由来だという。
中国
6月22日(旧暦5月)は『夏至面』と呼ばれるものがある。 夏至面(簡体字:夏至麵)は、漢民族の風習で、二十四節気の一つである夏至の節句に凉面(涼麺)を食べる習慣を指し、中国全域で親しまれている習慣である。
全国冷し中華愛好会
全国冷し中華愛好会、略称は全冷中(ぜんれいちゅう)。 発足のきっかけは1975年(昭和50年)1月の寒い時期、山下洋輔氏がマネージャーと編集者の3人で行った荻窪の蕎麦屋『長寿庵』で冷やし中華を注文したところ、季節外れのために断わられたことが発端である。
中国の主な凉面
中国の代表的な凉面として挙げられてるものは、一覧として文章で単純にコピー&ペーストされ(日本でも見られるケース)、中国内でも流布されているが詳細内容も少なく、特に反応も少ない。 その原因は、料理の特徴を表した名称、他の地域で作られる場合の名称、レシピ系サイト投稿者による創作系やYouTuberの誘導などが統合されたもので把握しづらくなっている点である。 それと連動するように他には、有名とされる地域が異なったり、特定の飲食店の地域を挙げる、またはそれに価しないものなどが見受けられた。 例としては、広東省で有名とされる「鸡蛋凉面」(目玉焼きをのせても鸡蛋凉面と呼ばれる)のレシピは錦糸卵をのせた「蛋丝凉面」や「蛋皮凉面」と同じであり、広東省に限らない。 広東は夏は暑い地域であるが、他の地域から「なぜ凉面を食べないのか?」という問いに対して「暑すぎて悪くなる」と答える地域である。 夏に広東を訪れた人の中には「これだけ麺店があるにもかかわらず、凉面を食べることはコンビニなどでケーキを手にするより難しい。」と喩える人もいるぐらいである。 ウキペディアでは黒竜江省・牡丹江市の冷麺「牡丹江冷麵」として挙げられているが「又一春冷面」という店の冷麺のことであり、画像は同省・鶏西市のみならず中国内でも有名な鸡西冷面でありながらも「鸡西冷面」は取り上げられていなかった。 また、「面」を「麵」と記述している点で文化圏が異なる寄稿者であることが伺える。 台湾は台式涼麵として挙げられていたが、歴史や文化の流れから福建省の凉面(ゴマだれ)と差異はなく、台湾では嘉義市の食べ方が特徴的だろう。
香港のXO醤や潮州市(広東省)、福建、台湾で使われる沙茶醤などの地域独自の調味料を使って、個人が「香港凉面」「広東凉面」などの名で投稿する場合もあるが、それらは一般的ではない。
※「中国の主な凉面」は、これらを修正、追加して簡単な説明を加えたものである。
説明
- 芝麻酱凉面(北京市):コマだれ(芝麻醤)を使ったもの。
- 素什锦凉面(北京市):ベジタリアン(八宝菜)系の食材のみを使ったもの。
- 鸡丝凉面(四川省):鶏肉の細切り、または裂いたものに辛味油のたれをかけたもの。
- 广元凉面(四川省・広元市):武則天を起源とする米を原料とした凉面で女皇蒸凉面の名で知られる。
- 雁北冷莜面(山西省):オーツ麦を原料とした麺の冷製。
- 凉拌刀削面(山西省):中国十大麺の一つである山西刀削面の冷製。
- 柳叶凉面(山西省):柳の葉状にカットした麺(乾麺を含む)の冷製。
- 什香凉面(山東省):十種類の具材をトッピッグしたもので番茄炒蛋は必須。
- 河南凉面(河南省):揚げ落花生をトッピングしたもの。
- 河南捞面(河南省):番茄炒蛋がのせられたもの。
- 兰州牛肉凉面(甘粛省・蘭州市):中国十大麺の一つである兰州牛肉面(蘭州ラーメン)の冷やし中華バージョン。
- 狗肉凉面(陝西省):犬肉を使ったもので滋養強壮源として夏至面には欠かせない。
- 凉皮(陝西省):陝西省発祥で主に中国西部および中国北部で食べられる。
- 全料凉面(湖北省・武漢市):中国十大麺の一つである武漢熱乾麺(武汉热干面)の凉面仕様の細麺が使われ、具材の中には細切り昆布が必ず入る。
- 长沙凉面(湖南省・長沙市):たれの中に腐乳の汁が使われている。
- 鸡西冷面(黒竜江省・鶏西市):鶏西市の有名な冷麺で中国東北部の朝鮮族の名物料理。延吉冷面と並んで冷麺界の「少林と武当」に喩えられる。
- 延吉冷面(吉林省・延辺朝鮮族自治州):中国十大麺の一つで、その中で唯一の冷製麺料理。
- 黄面(新疆ウイグル自治区):新疆凉面ともいわれ、独自の手延べ製麺で茹でた後に黄色くなるのが由来。
- 四碟捞面(天津市):冷した麺に別皿で4種の具材を提供するスタイルが基だが、現在はそれ以上になる場合が多い。
- 三丝冷面(上海市):3種の細切り具材を使ったシンプルな凉面で上海では定番。
- 炸酱凉面(中国広域):温製の北京炸酱面は中国十大麺の一つ。現在は中華圏のみならず、韓国(ジャージャー麺)、日本(岩手・盛岡じゃじゃ麺)など、アレンジされて広く親しまれている。炸酱(肉みそ)は、ミートソースの起源にもなっているという説もある。
- 凉粉(中国広域):原材料は異なるが日本の夏の涼味である「ところてん」に近い。
- 葱油凉拌面(中国・江南地方):ネギ油の和え麺で上海市、杭州市、紹興市、蘇州市、鎮江市を含む江南地方(揚子江の下流域・南岸地域一帯)で食べられる。
- 撈冷麵(香港):ビニール袋で提供され、自分で和える「ファースト系冷やし中華」が若者の間で名物になっている。
- 美乃滋涼麵(台湾・嘉義市):ゴマだれ以上にマヨネーズ(台湾語:美乃滋)が主力の嘉義スタイル。 台湾でマヨネーズといえば名物の栄養サンドイッチもその一つ。
中国のトマトと凉面
トマトの生産
中国は、トマト生産量で世界シェア第1位を誇り、第2位のインドを大きく引き離す(約3倍)世界最大のトマト生産国である。 中国からのトマト輸出量の最大の国になっているのはロシアで、続いて2位 モンゴル、3位 香港、4位 カザフスタン、5位 ベトナムとなっているが、ロシアへの輸出量は2位のモンゴルとは比較にならない量で群を抜いている。 中国国内で最も多いトマト生産量を誇る新疆ウイグル自治区は世界の3大トマト生産地域の1つで、近年では栽培効率の高い温室植栽技術の発展・導入にともない、山東省で生産されている青島トマト(青岛西红柿)も有名である。
トマトの利用
中国ではトマト(中国語:西红柿または番茄)は、ごく普通の食材として使われる。 日本に例えるなら、味噌汁にトマトを入れるに等しい「番茄蛋湯」、卵の炒め物にトマトを使う「番茄炒蛋」ような料理が家庭料理の定番として定着している。 昭和初期の創刊号雑誌『栄養と料理』で、支那料理を主として山田政平が随筆していた連続講座の中にトマト料理が掲載されていることから、中国でトマトの生産が盛んになる以前から上海などでは存在していたと考えられる。 現在はトマトを混ぜ込んだ手打ち麺「西红柿面条」が使われたり、トマトを混ぜ込んだ生麺や乾麺タイプの商品も多社から市販されている。
西红柿鸡蛋凉面
中国では、凉面の特色や地域性の資料として挙げた中国の主な凉面だけでなく、それにトマトを加えた料理名も様々ある。 また、それとは別に地域性を超えた定番として凉面にトマトが使われる。 特に「西红柿鸡蛋凉面」は、中国の人々の中では手軽に作られるものとして非常に人気が高い。
南街村
河南省・漯河市 臨潁県 城関鎮にある南街村(なんがいそん)は、近年、資本主義の流れにある中国の中で、毛沢東(もうたくとう:1893年12月26日 - 1976年9月9日)の思想を貫いている最後の社会主義の村である。 村は「南街村グループ」を運営し、村民全員に様々な職場での雇用を提供している。 南街村グループは村民の給与として30%を現金で支払い、残りの70%を公共サービスに充てている。 南街村には多くの工場や製粉所があり、即席めんやビールなどの食料品を数多く生産している。 インスタントラーメンの生産は1989年(昭和64年:平成元年)に開始され、ベストセラー商品も多く生み出している。
南街村 鸡蛋番茄凉面
南街村ブランドの即席めんシリーズの中に『南街村 鸡蛋 番茄凉面』という商品がある。 この商品は、器となる透明な耐熱プラスチックケースの中に、麺、調味油、たれ、かやく、フォークが収められているオールインワンパッケージである。 商品名の「鸡蛋 番茄凉面」は中国で人気の高い「西红柿鸡蛋凉面」と同じ意味だが、「鸡蛋」(卵)の表示は小さく、「番茄凉面」を全面に押し出している。 かやくには日本のインスタントラーメンに見られるようなフリーズドライの卵は入っておらず、他のシリーズ(揚げたグリーンピースか白胡麻)と同様、揚げたグリーンピースが数十粒入っているシンプルなもので、日本の納豆(ミツカン)の「たまご醤油たれ」のように特製だれで再現を試みた画期的な商品である。 麺は日本のインスタント焼きそば形式とは異なり、真空包装された加熱済み生麺が使われており、電子レンジで1分半加熱(湯煎も可能)した後、冷水に麺を通し、付属のかやく調味料と和えて食べるタイプになっている。 ユーザーによっては、温かいまま和えたり、目玉焼きやスクランブルエッグを後乗せするなどで親しまれている。