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==== 🍅 1492年 ====
 
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<p>[[クリストファー・コロンブス]]が8月3日、インド(インディア)を目指してパロス港を出航し、10月11日大陸を発見する。</p>
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<p>[[クリストファー・コロンブス]]が8月3日、パロス港を出航し、10月11日に新大陸を発見する。</p>
  
 
==== 🍅 1519年 ====
 
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<p>スペインのコンキスタドール(征服者)である[[エルナン・コルテス]]が、キューバ総督ディエゴ・ベラスケスの命令に違反してメキシコに上陸、侵攻を開始する。</p>
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<p>スペインのコンキスタドール[[エルナン・コルテス]]がキューバ総督ディエゴ・ベラスケスの命令に違反してメキシコに上陸、侵攻を開始する。</p>
  
 
==== 🍅 1521年 ====
 
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<p>[[エルナン・コルテス]]がメキシコ高原のテノチティトランを征服、アステカ帝国が滅亡する。<br>
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<p>エルナン・コルテスがメキシコ高原のテノチティトランを征服、アステカ帝国が滅亡する。<br>
  
 
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<p>[[エルナン・コルテス]]がスペインに一時帰国。<br>
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<p>エルナン・コルテスがスペインに一時帰国。<br>
 
その際にトマトを祖国に移入した可能性。</p>
 
その際にトマトを祖国に移入した可能性。</p>
  
 
==== 🍅 1544年 ====
 
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<p>イタリア(トスカーナ)の医師で植物学者である[[ピエトロ・アンドレア・マッティオリ]]がトマトを含む文献を出版。<br>
 
<p>イタリア(トスカーナ)の医師で植物学者である[[ピエトロ・アンドレア・マッティオリ]]がトマトを含む文献を出版。<br>
黄金の林檎(Poma aurea)と名付ける。<br>
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トマトを黄金の林檎(Poma aurea)と名付ける。<br>
 
トマトは塩、コショウをして油で揚げて食べていた。</p>
 
トマトは塩、コショウをして油で揚げて食べていた。</p>
  
 
==== 🍅 1548年10月31日 ====
 
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<p>フィレンツェ共和国(イタリア)の銀行家で公爵であるコジモ・デ・メディチがフィレンツェのトレッデルガロの邸宅からトマトのバスケットを受け取り、執事が、デ・メディチの個人秘書に「トマト(Pomi d'oro)のバスケットが届いた」と書き、トマトがPomi d'oroとしてイタリアで最初の名前を与えられる。<br>
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<p>フィレンツェ共和国(イタリア)の銀行家で公爵である[[コジモ・デ・メディチ]]がトレッデルガロの邸宅からトマトのバスケットを受け取り、執事が、デ・メディチの個人秘書に「トマト(Pomi d'oro)のバスケットが届いた」と書き、トマトがPomi d'oroとしてイタリアで最初の名前を与えられる。<br>
 
それまで、Pomi d'oroは科学者が論文でイチジク、メロン、柑橘類を指すものとして使われていた。</p>
 
それまで、Pomi d'oroは科学者が論文でイチジク、メロン、柑橘類を指すものとして使われていた。</p>
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==== 🍅 1578年 ====
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<p>イギリスの植物学者[[ヘンリー・ライト]]は、トマトがイギリスで栽培されていると報告している。</p>
  
 
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フィリペ2世により、スペイン(カサ・デ・カンポ)の祭司に任命された植物学者であるグレゴリオデロス・リオスによって書かれたAgricultura de jardines(園芸農業)という著書の中でスペインで初のトマトの栽培に関する内容が登場する。
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[[フェリペ2世]]により、スペイン(カサ・デ・カンポ)の祭司に任命された植物学者である[[グレゴリオ・デ・ロス・リオス]]の著書『Agricultura de jardines:園芸農業』の中でスペインで初のトマトの栽培に関する内容が登場する。
  
 
==== 🍅 1597年 ====
 
==== 🍅 1597年 ====
<p>イギリスの床屋で外科,植物学者の[[ジョン・ジェラード]]が、フランス人とイタリア人がトマトを食べたことを認めながらも、トマトは有毒​​であると述べた本、The Herball or Generall Hiftorie of Plantesを出版。</p>
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<p>イギリスの植物学者[[ジョン・ジェラード]]が、フランス人とイタリア人がトマトを食べたことを認めながらも、トマトは有毒​​であると述べた『The Herball or Generall Hiftorie of Plantes』を出版して物議を醸す。</p>
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==== 🍅 1602年 ====
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<p>火災で焼失したピサ大聖堂の正面扉がジャンボローニャ学校の生徒たちによって新たに修復され、右扉にはトマトが描かれた。</p>
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<p>フィリペ4世の妻であるフランスのイザベラ女王が料理にトマトが多すぎるとして、わずかに無気力になる。</p>
  
 
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<p>フィリペ4世の妻であるフランスのエリザベス女王が料理にトマトが多すぎるとして、わずかに無気力になる。</p>
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<p>オーストリアのウィーン宮廷前の野外劇場でオペラ「[[イル・ポモ・ドーロ]]」が上演された。</p>
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<p>スペインの画家[[バルトロメ・エステバン・ムリーリョ]]の『天使の台所』にトマトが登場する。</p>
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イギリスの植物学者[[ジョン・パーキンソン]]はトマトはまだハーバリストの庭で装飾や好奇心として栽培されていたと報告している。
  
 
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<p>貴族、バルベリーニ枢機卿の料理人である[[アントニオ・ラティーニ]]がトマトソースのレシピ本を出版。</p>
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<p>スペイン貴族、バルベリーニ枢機卿の執事であるイタリア人シェフ、[[アントニオ・ラティーニ]]が初のトマトソースのレシピ本を出版。</p>
  
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<p>最後まで自立を保持していたペテン盆地のタヤサルが陥落、[[マヤ]]文明圏全域がスペイン領に併合される</p>
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<p>マヤ王国で最後まで自立を保持していた[[ノジペテン|タヤサル]]が陥落し、[[マヤ文明]]圏全域がスペイン領に併合される。</p>
  
 
==== 🍅 1710年 ====
 
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<p>イギリスの医師である[[ウイリアム・サーモン]]が旅行の際、アメリカ(イギリス北領)サウスカロライナで栽培されているトマトを見たと報告。</p>
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<p>イギリスの医師である[[ウィリアム・サーモン]]が旅行中、アメリカ(イギリス北領)サウスカロライナでトマトが栽培されているを見たと報告。</p>
  
 
==== 🍅 1745年 ====
 
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<p>スペイン(フランシスコ会)修道士のシェフである[[フアン・アルタミラス]]によってトマトを使ったスペイン料理の本が出版される。</p>
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<p>スペイン(フランシスコ会)修道士のシェフである[[フアン・デ・アルタミラス]]によってトマトを使ったスペイン料理の本が出版される。</p>
<p>第3代アメリカ合衆国大統領であるトーマス・ジェファーソンが、ユダヤ人の友人であるジョン・デセケイラ博士が、1745年にウィリアムズバーグ(バージニア州)に到着した後、バージニアにトマトを紹介したと書く。</p>
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<p>第3代アメリカ合衆国大統領である[[トーマス・ジェファーソン]]が、ユダヤ人の友人である[[ジョン・デ・セケイラ]]博士が、1745年にバージニア州ウィリアムズバーグに到着した後、バージニアにトマトを紹介したとバージニア覚書に記す。</p>
  
 
==== 🍅 1758年 ====
 
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<p>イギリスの料理作家である[[ハナー・グラス]]によると、1750年代、トマトはイギリスではスープで食べられていた。</p>
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<p>イギリスの料理作家である[[ハナー・グラス]]によると、1750年代のイギリスではトマトはスープで食べられていた。</p>
  
 
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<p>中国(山西省)の文献「猗氏县志」ではじめてトマトが西番柿として登場する。</p>
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<p>中国(山西省)の文献「猗氏县志」で初めてトマトが西番柿として登場する。</p>
  
 
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<p>イタリアの貴族であり作曲家で料理人である[[イポリト・カヴァルカンティ]]公爵がトマトソースとパスタを合わせたレシピ本を出版。</p>
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<p>イタリアの貴族であり作曲家で料理人である[[イッポリト・カヴァルカンティ]]公爵がトマトソースとパスタを合わせたレシピ本を出版。</p>
  
 
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<p>トマトの味など品種改良に大きな功績を残したトマトブリーダーである[[アレクサンダー・W・リヴィングストン]]が20年の歳月を費やしてパラゴントマトの栽培に成功する。<br>
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<p>現代のトマトの父と称される[[アレクサンダー・W・リヴィングストン]]が20年の歳月を費やしてパラゴン種トマトの栽培に成功する。</p>
パラゴン品種は、現代の多くのトマトの祖先と見なされている。</p>
 
  
 
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<p>フィリップ2世のアランフェス(スペイン・マドリード州南部)の植物園の主任庭師が「ソースに良いと言われています」と書いた。<br>
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<p>[[フェリペ2世]]のアランフェス(スペイン・マドリード州南部)の植物園の主任庭師が「ソースに良いと言われています」と書いた。<br>
 
しかし、一般的には装飾用の植物とされ、料理用としてめったに使われなかった。<br>
 
しかし、一般的には装飾用の植物とされ、料理用としてめったに使われなかった。<br>
 
フィレンツェ(イタリア・トスカーナ州)の貴族、ジョヴァン・ヴィットリオ・ソデリーニは「彼らは美しさだけだけを求められた」と記している。</p>
 
フィレンツェ(イタリア・トスカーナ州)の貴族、ジョヴァン・ヴィットリオ・ソデリーニは「彼らは美しさだけだけを求められた」と記している。</p>
  
 
==== 🍅 1799年 - 1825年頃 ====
 
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<p>アレッポ(シリア北部にある都市)のイギリス領事である[[ジョン・バーカー]]によって北アフリカと中東にトマトが紹介され栽培が導入される。</p>
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<p>シリア北部にある都市アレッポのイギリス領事である[[ジョン・バーカー]]が北アフリカと中東にトマトが紹介し、栽培が導入される。</p>
  
 
==== 🍅 1807年 ====
 
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<p>イタリアのローマでトマトを使ったスープにミニパスタが入った「ミネストラ」が大流行する。</p>
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<p>イタリアのローマでトマトを使ったスープにミニパスタが入った「ミネストラ」が大流行していると[[グリモ・ド・ラ・レニエール]]が著書で記す。</p>
  
 
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<p>アメリカ(ニュージャージー州セーラム郡)の裁判所前で 、[[ロバート・ギボン・ジョンソン|ジョンソン大佐]]として知られる[[ロバート・ギボン・ジョンソン]]が「トマトを食べてみせる」と言い、それに2,000人もの群衆が集まり、食べる姿を見て怒号や悲鳴、失神する女性も出たが最後は歓声で終わった。</p>
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<p>アメリカ(ニュージャージー州セーラム郡)の裁判所前で ジョンソン大佐として知られる[[ロバート・ギボン・ジョンソン]]が「トマトを食べてみせる」と言い、それに2,000人もの群衆が集まり、食べる姿を見て怒号や悲鳴、失神する女性も出たが最後は歓声で終わった。</p>
  
 
==== 🍅 1873年5月1日 - 10月31日 ====
 
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<p>一般的には、まだ非常にエキゾチックに映っていたトマトはハンガリー帝国(オーストリア)のウィーン万国博覧会で人の目を引く植物として展示された。</p>
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<p>ハンガリー帝国(オーストリア)のウィーン万国博覧会でトマトは人の目を引く植物として展示された。一般的には、まだ非常にエキゾチックに映っていた。</p>
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ハインツが「母をはじめとする家庭の女性への祝福された救済」をスローガンとして米国でトマトケチャップを発売した。
  
 
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<p>Nix v. Hedden</p>
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<p>アメリカの税関規制の下で、トマトは果物か野菜かの問題、[[Nix v. Hedden]]訴訟事件が起きる。</p>
 
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明治20年、日本で従来観賞用だった「トマト」が、この頃から食用として栽培される。別名「アカナス」とも呼ばれた。
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<p>アメリカの税関規制の下で、トマトは果物ではなく野菜として分類されるべきであるという決定を合衆国最高裁判所がしたことで一連の[[Nix v. Hedden]]問題が解決。</p>
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<p>アメリカ合衆国最高裁判所が、トマトは果物ではなく野菜として分類されるべきであるという判決を下したことで一連のNix v. Hedden問題が解決した。</p>
  
 
==== 🍅 1940年 ====
 
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<p>イタリアの起業家であるジョヴァンニ・ブイトーニが、ニューヨークのタイムズ・スクエアにレストランをオープン。<br>
 
<p>イタリアの起業家であるジョヴァンニ・ブイトーニが、ニューヨークのタイムズ・スクエアにレストランをオープン。<br>
 
トマトソースのパスタを25セントで提供したことで人気をよび、インターナショナルになる。</p>
 
トマトソースのパスタを25セントで提供したことで人気をよび、インターナショナルになる。</p>
<p>1940年半、スペイン(ブニュール)で[[トマティーナ]]が始まる。</p>
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<p>1940年半、スペイン(ブニョール)で[[トマティーナ]]が始まる。</p>
  
 
==== 🍅 1959年 ====
 
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<p>毎年段々と過激になってきたことを受けてブニュールで[[トマティーナ]]のルールが制定される。</p>
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<p>トマティーナが毎年段々と過激になってきたことを受けて、ブニョールで[[トマティーナ]]のルールが制定される。</p>
  
 
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[[カテゴリ:トマト年表|*]]

2022年5月6日 (金) 04:23時点における最新版

🍅 紀元前1800年

マヤ文明(先古典期)都市建造が始まる。

🍅 紀元前200年

メキシコシティ南東のテワカン渓谷にある洞窟の発掘調査で紀元前200年前の地層からトマトの種子が見つかる。

🍅 紀元後古典期年

マヤ文明(古典期)

🍅 700年

マヤ文明(後古典期)

🍅 1428年

アステカ(メキシコ中央部で栄えたメソアメリカ文明)

🍅 1492年

クリストファー・コロンブスが8月3日、パロス港を出航し、10月11日に新大陸を発見する。

🍅 1519年

スペインのコンキスタドールエルナン・コルテスがキューバ総督ディエゴ・ベラスケスの命令に違反してメキシコに上陸、侵攻を開始する。

🍅 1521年

エルナン・コルテスがメキシコ高原のテノチティトランを征服、アステカ帝国が滅亡する。

🍅 1527年

エルナン・コルテスがスペインに一時帰国。
その際にトマトを祖国に移入した可能性。

🍅 1544年

イタリア(トスカーナ)の医師で植物学者であるピエトロ・アンドレア・マッティオリがトマトを含む文献を出版。
トマトを黄金の林檎(Poma aurea)と名付ける。
トマトは塩、コショウをして油で揚げて食べていた。

🍅 1548年10月31日

フィレンツェ共和国(イタリア)の銀行家で公爵であるコジモ・デ・メディチがトレッデルガロの邸宅からトマトのバスケットを受け取り、執事が、デ・メディチの個人秘書に「トマト(Pomi d'oro)のバスケットが届いた」と書き、トマトがPomi d'oroとしてイタリアで最初の名前を与えられる。
それまで、Pomi d'oroは科学者が論文でイチジク、メロン、柑橘類を指すものとして使われていた。

🍅 1578年

イギリスの植物学者ヘンリー・ライトは、トマトがイギリスで栽培されていると報告している。

🍅 1592年

フェリペ2世により、スペイン(カサ・デ・カンポ)の祭司に任命された植物学者であるグレゴリオ・デ・ロス・リオスの著書『Agricultura de jardines:園芸農業』の中でスペインで初のトマトの栽培に関する内容が登場する。

🍅 1597年

イギリスの植物学者ジョン・ジェラードが、フランス人とイタリア人がトマトを食べたことを認めながらも、トマトは有毒​​であると述べた『The Herball or Generall Hiftorie of Plantes』を出版して物議を醸す。

🍅 1602年

火災で焼失したピサ大聖堂の正面扉がジャンボローニャ学校の生徒たちによって新たに修復され、右扉にはトマトが描かれた。

🍅 1639年

フィリペ4世の妻であるフランスのイザベラ女王が料理にトマトが多すぎるとして、わずかに無気力になる。

🍅 1639年

オーストリアのウィーン宮廷前の野外劇場でオペラ「イル・ポモ・ドーロ」が上演された。

🍅 1646年

スペインの画家バルトロメ・エステバン・ムリーリョの『天使の台所』にトマトが登場する。

🍅 1656年

イギリスの植物学者ジョン・パーキンソンはトマトはまだハーバリストの庭で装飾や好奇心として栽培されていたと報告している。

🍅 1692年

スペイン貴族、バルベリーニ枢機卿の執事であるイタリア人シェフ、アントニオ・ラティーニが初のトマトソースのレシピ本を出版。

🍅 1668年

マヤ王国で最後まで自立を保持していたタヤサルが陥落し、マヤ文明圏全域がスペイン領に併合される。

🍅 1710年

イギリスの医師であるウィリアム・サーモンが旅行中、アメリカ(イギリス北領)サウスカロライナでトマトが栽培されているを見たと報告。

🍅 1745年

スペイン(フランシスコ会)修道士のシェフであるフアン・デ・アルタミラスによってトマトを使ったスペイン料理の本が出版される。

第3代アメリカ合衆国大統領であるトーマス・ジェファーソンが、ユダヤ人の友人であるジョン・デ・セケイラ博士が、1745年にバージニア州ウィリアムズバーグに到着した後、バージニアにトマトを紹介したとバージニア覚書に記す。

🍅 1758年

イギリスの料理作家であるハナー・グラスによると、1750年代のイギリスではトマトはスープで食べられていた。

🍅 1613年

中国(山西省)の文献「猗氏县志」で初めてトマトが西番柿として登場する。

🍅 1779年

フランスの園芸雑誌、ル・ボン・ジャルディニエ(Le Bon Jardinier:1755年 - 1781年刊行)でトマトでソースを作ることが可能だと紹介された。

🍅 1785年

イタリアの貴族であり作曲家で料理人であるイッポリト・カヴァルカンティ公爵がトマトソースとパスタを合わせたレシピ本を出版。

🍅 1770年

アメリカで最も初期のトマト料理のレシピが、サウスカロライナで出版される。

🍅 1780年

現代のトマトの父と称されるアレクサンダー・W・リヴィングストンが20年の歳月を費やしてパラゴン種トマトの栽培に成功する。

🍅 1790年

ヨーロッパを渡り歩いたローマの料理人、フランチェスコ・レオナルディがトマトソースとパスタを合わせたレシピ本を出版。
イタリアではトマトを最初に使った人の一人でパスタとトマトソースをあわせた古典的な料理の起源と捉えている。

🍅 1792年

フェリペ2世のアランフェス(スペイン・マドリード州南部)の植物園の主任庭師が「ソースに良いと言われています」と書いた。
しかし、一般的には装飾用の植物とされ、料理用としてめったに使われなかった。
フィレンツェ(イタリア・トスカーナ州)の貴族、ジョヴァン・ヴィットリオ・ソデリーニは「彼らは美しさだけだけを求められた」と記している。

🍅 1799年 - 1825年頃

シリア北部にある都市アレッポのイギリス領事であるジョン・バーカーが北アフリカと中東にトマトが紹介し、栽培が導入される。

🍅 1807年

イタリアのローマでトマトを使ったスープにミニパスタが入った「ミネストラ」が大流行しているとグリモ・ド・ラ・レニエールが著書で記す。

🍅 1820年9月26日

アメリカ(ニュージャージー州セーラム郡)の裁判所前で ジョンソン大佐として知られるロバート・ギボン・ジョンソンが「トマトを食べてみせる」と言い、それに2,000人もの群衆が集まり、食べる姿を見て怒号や悲鳴、失神する女性も出たが最後は歓声で終わった。

🍅 1873年5月1日 - 10月31日

ハンガリー帝国(オーストリア)のウィーン万国博覧会でトマトは人の目を引く植物として展示された。一般的には、まだ非常にエキゾチックに映っていた。

🍅 1876年

ハインツが「母をはじめとする家庭の女性への祝福された救済」をスローガンとして米国でトマトケチャップを発売した。

🍅 1883年

アメリカの税関規制の下で、トマトは果物か野菜かの問題、Nix v. Hedden訴訟事件が起きる。

🍅 1887年

明治20年、日本で従来観賞用だった「トマト」が、この頃から食用として栽培される。別名「アカナス」とも呼ばれた。

🍅 1893年

アメリカ合衆国最高裁判所が、トマトは果物ではなく野菜として分類されるべきであるという判決を下したことで一連のNix v. Hedden問題が解決した。

🍅 1940年

イタリアの起業家であるジョヴァンニ・ブイトーニが、ニューヨークのタイムズ・スクエアにレストランをオープン。
トマトソースのパスタを25セントで提供したことで人気をよび、インターナショナルになる。

1940年半、スペイン(ブニョール)でトマティーナが始まる。

🍅 1959年

トマティーナが毎年段々と過激になってきたことを受けて、ブニョールでトマティーナのルールが制定される。

🍅 1961年

世界中で約2,800万トンのトマトが生産された。

🍅 1988年

グッドモーニングアメリカ(ABCで放送されている朝の情報番組)は、ジョンソン大佐がアメリカで最初にトマトを食べたと報道した。