蚵仔煎
蚵仔煎(オアチェン:牡蠣オムレツ)は、台南の特産である牡蠣を水で溶いたサツマイモ粉の生地で包んだオムレツで、台南の安平地区の古い世代の人たちに親しまれている伝統的な小吃です。
歴史
台湾奪還
台湾は、1624年から台湾南部を制圧したオランダ(オランダ東インド会社)の植民地支配をうけていましたが、1661年に鄭成功(てい せいこう)は、25,000人の兵士を率い、400隻の軍艦を使って、失地回復のために軍隊をルエルメンの港から侵略させ、破竹の進撃でオランダ軍を打ち負かしました。 オランダ軍はすべての米や穀物を奪い隠し、鄭軍が食糧不足になった頃合いを狙おうとしましたが、彼は海で獲れる牡蠣とサツマイモの粉を水と混ぜてシンプルなオムレツにしたという伝承があります。
鄭成功率いる軍隊は、サツマイモと海産物で食料をまかない、逆に9か月間にわたってオランダの主要な基地であるゼーランディア城を包囲しました。 その年の12月、ついにオランダは正式に降伏に調印し、1662年には完全撤退しました。 そして、県内でも人気の高い食べ物になったといいます。
しかし、中国大陸では、福建省の小吃として牡蠣オムレツが紹介されており、これは別の起源である。
鄭成功
台湾の国民的英雄として知られている鄭成功(1624年8月27日 - 1662年6月23日)は、1624年に日本の長崎県平戸市で生まれました。 父親の鄭芝龍は中国人、母親の田川マツは日本人で、彼の幼名は福松(ふくまつ)と言い、幼い頃は母親と平戸に住んでいました。 父親は彼が7歳のときに勉強のために父の故郷である中国の福建省泉州に連れて行き、幼かった弟は母と共に日本に留まり、田川七左衛門と名付けられて日本人として育ちました。 鄭成功は父の紹介により、明王朝の龍武皇帝から「朱」の称号が与えられ、彼は自分自身を「国の名前の成功」と呼びました。 後世では鄭成功と呼ぶのが通例ですが、清王朝に由来する称号です。 鄭成功を称える像や碑は台湾国内や福建省で見られますが、日本の長崎県平戸市千里ヶ浜にも、福松を産み落とした地に「鄭成功児誕石」という碑があります。
代用食
台湾の小吃の多くは、貧しい生活の象徴である食べ物の代わりとして、自給自足のできない人々が考案したものとも言われている。 当初、牡蠣オムレツ「蚵仔煎」は「煎食追」と呼ばれていたという。 これは、牡蠣、卵、キャベツ、ニラなどを、サツマイモの粉に水を加えた衣で包んだもので、台南の安平地区の古い世代の人たちに親しまれている伝統的な小吃です。
日本統治時代
もう一つの説には、牡蠣オムレツの発祥の地は、台湾の鹿港にある天后宮前の露天だったと言われています。 日本統治時代に海軍を退役した郭(クォ)氏が海鮮小吃の商売を始め、牡蠣の磯の香りに惹かれて牡蠣オムレツを考案したのが始まりだという。 当初は人気が出るとは思ってもいませんでしたが、徐々に同じような店が増えていったといいます。 現在は、天后宮前のいたるところで見られ、中には「郭」を冠した店もある。
牡蠣の養殖
オランダ統治時代の台湾をオランダ人が記録した歴史的文献『ゼーランディア城日誌』には、すでに牡蠣の生産が記載されている。 しかし、現在のような養殖が始まったのは、日本統治時代に、竹を利用した牡蠣の養殖をはじめた鹿港が、台湾における牡蠣養殖の起源ともされています。 もう1つは、日本の養殖専門家の茅葉三郎が1899年に発表した「台湾のカキ養殖プロジェクト」です。 牡蠣の養殖技術は嘉義海岸への導入が台湾の養殖事業の始まりともされています。
特徴
特産地
牡蠣オムレツは、現在、台湾のいたるところで食べられますが、「牡蠣オムレツを食べるなら、牡蠣の生産量が多い台南の安平、嘉義の東勢、屏東の東港などの産地に行くべきだ」という考えを持っている食通も多い。 たしかに、牡蠣の特産地は剥きたてを販売しているので、輸送のために水に浸す必要がありません。 しかし、現代の台湾の配送技術では、たとえ産地から離れていても、特産地から毎日新鮮な牡蠣が台湾全土に届けられることが可能になっているため、現在では台湾の広範囲にある多数の夜市で食べられる庶民的なものであり、観光客にとっても、特に地域による大きな差異もなく台湾を代表する名物メニューになっています。
その中でも牡蠣の特産地で食べようとするマニアは後を絶ちません。 その主な理由は、牡蠣小屋からそのまま持ってきて調理されることだけでなく、牡蠣オムレツ以外にも、牡蠣を贅沢三昧に使った料理の充実性、庶民的な価格、特産地ならではの風土、風景、土着した食文化に触れられることに起因しています。
牡蠣
牡蠣は、滋養効能などの栄養面において、日本のみならず世界的に認知されている食材の一つです。 夜市を楽しみながら飲酒する多くの人たちにとっても、牡蠣オムレツは暗黙の中で必然的に人気が高くなります。
日本では、一般的に大ぶりの牡蠣がありがたがられ、それが贅沢気分を感じさせたり、味がよいという判断基準にされがちですが、牡蠣は海水や生育環境によって形状すら変異するものです。 過去にヨーロッパで牡蠣の病気などで大打撃を受けた時、日本から牡蠣苗をもって養殖しました。 アメリカでも日本の牡蠣苗を養殖していますが、別の牡蠣のようなとても良い味になったりもします。 また、フランスなどに見られる代表的な牡蠣の生食文化であるオイスターバーでもわかるように、海外産の小粒な牡蠣には、その一粒に磯や潮の香りというよりは、一種の爽やかな清涼感すら感じる芳香と濃厚なミルキー感と余韻が残る、濃縮されたようなものが沢山あります。 牡蠣の大きさは味の善し悪しや濃厚さと決して比例しません。
ちなみに、ポルトガル牡蠣とよばれるポルトガル産の牡蠣は台湾の牡蠣と同種であることがわかっています。 同じ牡蠣ということと、覇権的な西洋の歴史もあり、一時はポルトガル人が持ち込んだ仕業という誤解を生じたこともありましたが、牡蠣の分析から逆でした。 台湾に到来したポルトガル帆船に牡蠣苗が付着し、本国へ帰港した際にポルトガルに移入されたと考えられています。 一般的に牡蠣は鮮度が命とされますが、実際、牡蠣は干潮によって海水がない環境や、ある程度の汽水域でも生育し、水がなくても2週間ぐらいは生きられるぐらい生命力は強い。 以上を踏まえて、台湾の美味しい牡蠣をポルトガル人が知り、本国に持ち帰ったとする新説を提唱し、正当化してもストーリー的に不自然ではありません。
牡蠣オムレツ「蚵仔煎」に使われる牡蠣は小ぶりな牡蠣が使われます。 大ぶりの牡蠣で日本人の価格帯意識であれば数個しか投入されず、牡蠣と生地を完全に別々で食べるようなバランスが崩れたものになったり、牡蠣自体をカットして使おうとするところですが、蚵仔煎には台湾産の小ぶりな牡蠣が贅沢に沢山入れられるのが特徴です。
日本では大きなものを生牡蠣として食べることも、この上ない至福の一つです。 しかし、加熱した場合、どんな大きな牡蠣でも身が小さくなることを日本人は知っています。 そのような牡蠣の場合、牡蠣から流出する多くの水分で、汁っぽいオムレツか出来損ないのお好み焼き、もんじゃ焼きに近くなってしまい、蚵仔煎は成立しません。
サツマイモ粉
サツマイモの伝来
牡蠣オムレツの生地に使われるサツマイモ粉(地瓜粉)の原料になるサツマイモは、ナス目・ヒルガオ科サツマイモ属の多年草植物で、原産地であるメキシコやペルーなど中南米から持ち込まれた外来植物です。 現在のメキシコにあったアステカ帝国では様々な食用作物が栽培されていましたが、1521年4月28日、エルナン・コルテス率いるスペイン軍によって滅ぼされたのち、新スペイン総督府となり、 現在のペルーにあったインカ帝国もまた、フランシスコ・ピサロ率いるスペイン軍によって1532年11月に滅びました。 フィリピンにも1521年にマゼラン率いるスペイン船団が到来し、1565年には新スペイン総督府の一部になりました。 このような一連の流れから、中南米原産の野菜や果物がフィリピンへ移入されました。
サツマイモは、当時スペイン帝国の植民地であったフィリピンのルソン島に渡った福建省福州市長楽県清橋村(現在の福建省福州市長楽区)の陈振龙(1543年頃 - 1619年)によって、1580年代に福建省に持ち込まれました。 彼は、ルソンでサツマイモの干ばつ耐性と収穫量の高さ(広い培地を必要とせずに密集して実る特性)を知りましたが、当時スペインはサツマイモの輸出を禁止していたため、サツマイモの蔓を吸水性のある縄と一緒に巻き、密輸して先住民から教わった植栽方法に従って試験栽培を行いました。
サツマイモが福建省を度々悩ませる干ばつによる飢饉、食糧難を緩和できたことから、その後、浙江省、山東省、台湾に広め、中国の重要な食用作物となりました。 彼は「サツマイモの父」と称されています。 サツマイモは空腹感を満たすことが出来た上に、澱粉、また「番薯烧」(地瓜烧:芋焼酎)と呼ばれる酒も作られました。
オランダによる台湾統治時代(1624年 - 1662年)、オランダ人は台湾に自生したサツマイモがあることを記しています。 当時、オランダ人はサツマイモには関心がなく、主に台湾先住民に米やサトウキビの栽培を勧めていました。 しかし、サツマイモの食料としての存在価値をすでに知っていた鄭成功によってオランダは大敗を喫し、台湾からの全面撤退を余儀なくされたのです。
台湾で初めてサツマイモが栽培された記録は、1603年に明朝の儒学者である陳第(1541年 - 1617年)が当時の台湾の風土を著した『東番記』に記されており、それ以前からサツマイモが栽培されていたことがわかる。
日本には、1604年(慶長9年)に福建省から琉球王国(沖縄)に伝わり、そこから薩摩(鹿児島県)に伝わりました。 中国でサツマイモの父と称される陈振龙は、日本のサツマイモの父にもなっています。 前年の1603年2月は徳川家康が征夷大将軍に任じられ、江戸幕府を開いた年です。 また、1604年は、鄭成功の父である鄭芝龍(てい しりゅう:1604年4月16日 - 1661年11月24日)が誕生した年でもある。
台湾人の隠語
日本統治時代、台湾人が日本の支配下にある中国大陸に出稼ぎに行くには見えない障壁がありました。 それは、日本人は台湾人が親中派だと思っていたのに対し、台湾人は日本が親中派であると信じていました。 その一方で、中国人からは台湾人は親日派と見なされるという、互いにすれ違った壁があったのです。 そのため、自分が台湾出身であることを明言しないことが多く、誰もが「サツマイモ」という隠語で自分の出身地を証明しています。 これは台湾の形がサツマイモに似ているためとされている。
大陸の人々は「サツマイモを食べるとバカになる」と台湾人を揶揄したことがありました。 それに対し、台湾人は他の省にいるこれらの人々を里芋(タロイモ:Taro)とギリシャ神話のタロース(塔罗斯)をもじって「タロース」(里芋野郎の意味合いで)と呼びました。 また、台湾に来た他の省の人たちは、サツマイモと里芋の発音の区別がつかず、サツマイモを買おうと注文して、里芋を買ってしまうことが多かったため、他の省の人たちは「里芋」(为芋头:タロウ)という愛称で呼ばれています。 本来の里芋は(芋头:ユートゥ)です。
戦前・戦中・戦後
第二次世界大戦前に、日本人はサツマイモの澱粉を発酵させてエタノール、メタノール、ブタノール、アセトンを生成する発明をし、台湾の嘉義に工場を建設しました。 第二次世界大戦中、これらの有機溶剤を生産していた工場は米軍の標的となり、攻撃をうけて破壊されました。 当時、有機溶剤の生産に加え、サツマイモは主食に取って代わる可能性があった時代です。 第二次世界大戦後、台湾には化学肥料産業がなかったため、化学肥料の需要を満たすために、台湾産の米を日本へ継続的に輸出していました。 そのため、戦後直後の台湾では米ではなくサツマイモを主に食べることを余儀なくされました。
そこにアメリカによる輸入代替政策として大量の小麦が台湾へ流入します。 →主な記事:栄養サンドイッチ
地瓜粉
サツマイモ粉(地瓜粉)も牡蠣オムレツを美味しくするポイントです。 サツマイモ粉にはさまざまな種類がありますが、コクと香りのある生地ができるのは純粋なサツマイモの粉だけです。 さつまいも粉の生地は焼くと透明感を帯び、クリスピーな部分としっとりした部分、ねっとりしたゼリー状の部分を様々楽しめる。 サツマイモ粉の衣によって、牡蠣のクリーミーな食感が増し、さらに純サツマイモ粉が牡蠣の新鮮さと食感をさりげなく引き立ててくれる、最高の相性になっています。
野菜
使われる野菜は、夏は小白菜、冬は筒篙というのが一般的なところとして知られていますが、これは台湾の首都である台北市で一般的であること、台湾外の観光客の認識、また家庭で作るレシピとして広く知られたことによってベーシック化された概念です。 実際は、台北、台中、台南など地域によって異なります。 台湾内では「正統な牡蠣オムレツとは何の野菜を使ったものか?」「牡蠣オムレツに使う王道の野菜とは何か?」というような議論は度々あり、各地域の人々のポリシーや好みの意見もあるため、一概にはいえません。
- 小白菜:チンゲン菜にも似ていますが、葉の形状が異なり、茎の部分が白く細い。また、白菜と異なり形状が不結球で、加熱しても余分な水分が出ません。
- 筒篙:筒篙菜ともよばれる台湾の春菊の一種で、緑色が薄く、葉のフリルも少ないですが香りは春菊よりある。 日本のような春菊は裂葉茼萵、または山茼窩とよばれます。
※小白菜、筒篙ともにシャキシャキ感と、ほのかな苦味がアクセントになっています。
地域性
台北
- 小白菜
- 筒篙
台中
- 空芯菜
- ほうれん草
- もやし
台南
- もやし
その他の葉菜
台湾では小白菜、筒篙、それ以外にも葉菜があります。 これらは店でも使われ、家庭や個人で牡蠣オムレツに使われる場合があります。
- 本島萵苣:台湾産の不結球レタスで、台湾では萵仔菜、通称「A菜」と呼ばれている台湾レタスです。
- 福山萵苣:中国大陸由来の半結球レタスで、台湾では大陸妹、大陸A菜と呼ばれていますが、中国本土を台湾と差別するニュアンスがあるとして、台湾農業評議会は2019年から呼称を改めるように促しています。
- 九层塔:台湾バジルと呼ばれるものは主に九層塔を指し、台湾では香菜(シァンツァイ:日本で知られているパクチー)と並んで主なハーブとして料理に使われます。 バジルでありながら、ほのかにミントの風味をもっているのが特徴です。
ソース
一般的には甘酸っぱいソースですが、その調合には各店で独自のこだわりがあります。 また、卓上には、番茄醤、辣椒醤、辣醤など好みで追加できるソースもあります。
- チリソースやトマトソースのような赤いソース
- 醤油膏やオイスターソースのような茶色いソース
- 赤と茶の二つをかけるダブルソーススタイル
- 赤と茶を混ぜたようなオレンジ色のソース
- 淡いピンク色のソース
こだわり
- 焼き方は、生地の粘度、返し方や焦げめ具合などに各店で独自のこだわりがあります。
- 焼き上げる油は香りのよいラードが使われる。
- 味を重視する店では、卵にもこだわり、濃い黄身の卵が使われます。
- 牡蠣を多く食べない人のために「牡蠣少なめ」「牡蠣少なめで卵多め」「牡蠣抜き」などの注文に臨機応変に対応する店もある。
- 牡蠣を食べれない人のためにも思いやりがあり、代わりに海老や花枝(モンゴウイカやコウイカ)を使ってくれる。
- 嘉義の東石では仕上げに細かく砕いたピーナッツをふりかける店もある。
炭火調理
基隆市の廟口夜市といえば、栄養サンドイッチが有名ですが、牡蠣オムレツの炭火調理に長年こだわる店がある。 日本でいう、焼き鳥や鰻のようなグリル料理では、炭火とガスとで調理の仕上がり具合や味に大きく差異は出ますが、牡蠣オムレツの場合は鉄板料理である。 しかし、日本でも焼き物ではなく、炭でもありませんが、コークス(純石炭)で炊き上げることで味を高める伝統的な「すっぽん鍋」もあるので、一概に焼き物だけとは言えません。 老舗のこだわりというのが人を引き付けるのも確かですが、こだわりの一つの理由は炭火とガスでは鉄板に行きわたる熱が違うといいます。 店は開放的なので、漂う炭と調理によって発生する香りが人を引き寄ることもありますが、実際に仕上がり具合、また香りが違うという客がいるのは、牡蠣オムレツに炭の香りを纏っていることを示唆しています。 この店には、2020年6月9日、蔡英文大統領が訪れている。
材料
食材
- 牡蠣
- 筒篙菜(トンガオツァイ)
- 適量のねぎ
生地
- 卵2個
- 地瓜粉(サツマイモ粉)
- 大さじ4の水
ソース
- 甜辣醤:大さじ3
- ケチャップ:大さじ3
- 醤油:大さじ2
- 味噌:大さじ2
- 砂糖:大さじ4
- 水
- コンスターチ
作り方
影響
- 2007年6月、雑誌「フォーサイト」が行った外食行動に関するアンケートでは、「最も台湾を代表する料理」として、牡蠣オムレツが1位になった。
- 2007年10月、経済部商務局は「外国人による台湾料理投票No.1」を開催し、軽食とテーブル料理に分けて、60人の外国人を招待し、その場で試食してもらった結果、牡蠣オムレツがチャンピオンになった。
- 2020年6月9日、蔡英文大統領は基隆市の廟口夜市にある炭火焼の牡蠣オムレツを味わいに「碳燒蚵仔煎」を訪れ、サインをした。
- 寧夏夜市の老舗「圓環邊蚵仔煎」がミシュランガイド台北2018~2021の4年連続でプレートミシュランに認定された。
ギャラリー
牡蠣オムレツ「蚵仔煎」は台湾国内の夜市や飲食店でも広く知られているメニューです。 夜市は他にもあり、以下はその一部に過ぎません。