牛の尾(食道楽)
牛の尾(うしのお)は、明治36年(1903年)に出版された村井弦斎の小説『食道楽・秋の巻』で赤茄子が登場する項である。
註譯
○犢の頭一頭分にて種々なる料理の出来るものなり。その内手軽きものは左の如し。 ○初め犢の頭皮をむき取り、その皮をおよそ四時間湯煮て軟かくなりし時細かに切り、別にバター一杯にてメリケン粉一杯をいため前の湯煮汁と牛乳とを各五勺ずつ加え塩胡椒にて味を付けたる白ソースを作り前の湯煮たる皮を入れて一時間ほど弱火にて煮るなり。これをフルカセーという。 ○前法の如く軟く湯煮たる頭の皮を細かく切り、別にフライ鍋へバター一杯を入れメリケン粉一杯をいため黒色になりし時スープ一合を入れ塩胡椒を以て味を付けたるブラウンソースを作り葡萄酒五勺ほど入れて前の湯煮たる皮を入れ一時間煮るあり。これを頭の皮のシチュウという。 ○また一升の水へ皮一頭分を入れ玉胡椒十粒、ルリーの葉二枚、玉葱の細かに切りたるもの二個分および塩少々加え四時間湯煮て皮を細かに切りまたその湯煮汁に塩胡椒を入れて味を付け裏漉しにし前の皮を混合せゼリー型または丼鉢へ入れて冷しおけばちょうど鮫のニコゴリの如きものとなる。なおその中へ湯煮玉子を適宜に切り共に寄せてもよし。これをプローという。
○頭全体を水二升、玉胡椒二十粒、ルリーの葉四枚、玉葱三個、塩少しを混合せたる汁に入れて四時間以上湯煮て姿のまま皿へ載せケッパーソースを掛けて食してもよし。 ケッパーソースはバター一杯にてメリケン粉一杯をいため牛乳一合にて弛め塩胡椒にて味を付けたる白ソースを作りその中へ瓶詰のケッパーという酸味ある青豆の如きものを二十粒ほど入れて作るなり。
○脳味噌は煮沸し湯に塩少しを入れたる物へおよそ五分間漬けて取出し薄皮をむき脳味噌一頭分を六ツほどに切り塩胡椒を振掛けメリケン粉を両面へ付け玉子の黄身にて包みパン粉を付けて油にて揚げ、別にバター一杯にてメリケン粉をいため赤茄子大匙五杯、スープ大匙五杯入て弛め塩胡椒にて味を付け弱火にて二、三十分間煮たるトマトソースを掛け食すべし。これをブレンズ・フライという。
○また鍋にて湯を沸し塩少しを入れ脳味噌を入れておよそ二十分間湯煮て引上げ薄皮を剥去り極細かに切り、別にバター一杯にてメリケン粉一杯をいため牛乳八勺ほどにてゆるめ塩胡椒を加えた白ソースの濃き物を作り前の脳味噌を入れて混ぜおき、冷めたる所にて適宜に丸めメリケン粉にころがし玉子の黄身にて包みパン粉を付けて油にて揚げる。これをブレンズ・コロッケーという。これへ前文のトマトソースを掛け食すれば味殊によし。
○犢の舌は三時間湯煮て皮を剥取り冷ましてそのまま薄く切りサラダ菜を附合せて塩胡椒にて食してもよし。
○また舌を前法の如く湯煮て別に前文にあるトマトソースを作りその中へ舌を入れおよそ一時間弱火にて煮て適宜に切り湯煮たる薯、人参を附合せに食してよし。これをタン・シチューという。
○また前文の如く湯煮て皮を剥たる舌に白ソースを掛けて食しても味甘し。
○また湯煮て皮を剥たる舌を白ソース一合の中へ玉子の黄身二個を入れてツブツブにならぬよう掻混ぜたる中へ入れ弱火にて二十分間煮るなり。これを舌のフルカセーという。
○犢の頭の皮一頭分は十人前、脳味噌は五人前、舌は二、三人前の料理に用いらるる徳用食料品なり。 なお羊豚の頭も犢の料理法の如くにて食するなり。豚の頭殊に味良し。
○牛の尾は本文の外にスープにも作り得べし。 それは牛の尾を本文記載の如く切り四時間湯煮手にて肉だけを取り別にバター一杯にてコルンスターチ一杯をいためスープ一合と牛の尾を湯煮たる汁二合とにて弛め塩胡椒にて味を付け前の牛の尾を入れ弱火にて十分間煮るなり。
○また前法の如くスープを作り牛の尾を骨のまま入れてもよし。
第二百五十 牛の尾
料理の献立は一段の工風を要す。
お登和嬢漸く思案を定め「第四番目は直段の廉くって味の美味い牛の尾のシチューに致しましょう。牛の尾は一本十二銭位ですから十人前に二本使うとして二十四銭です。料理次第で大層美味くなるものです。それを截きるのが少し面倒で、尾の骨の節から長さ一寸位ずつに截らなければなりません。細い処は上から節が見えますけれども肉の厚い太い所はどの辺が節だか慣れないとよく分りません。何でも上から指でよく押してみてこの辺が節だと思う処を肉切庖丁で截りますと節の処から楽に截れますが節でない処を截るとなかなか離れません。こうして截れたら骨の付いたまま水から四時間ほど湯煮ます。別の鍋へ例の通りバターを溶かしてメリケン粉を焦げるようによくいためてまた玉葱の刻んだのを一つその中でいためて狐色にして今湯煮た汁を一合と赤葡萄酒を一合注して塩胡椒で味をつけて、湯煮た尾を入れてまた一時間ほども弱い火で煮ます。出す時には骨付のまま皿へ盛ってパンの小さく切ったのをフライして周囲へ置きますが尾の肉が柔くなってなかなか美味うございます。これが先ず四十五銭位かかりましょうか」小山「牛の尾は私も折々食べた事がありますがなかなか結構ですね。それに牛の脳味噌も薬になるといって西洋人が大層珍重するそうですね」お登和嬢「ハイ脳味噌はお豆腐のように柔くって味も良うございますが、まだ御婦人なんぞは気味が悪いといって召上らない方が多いようです。西洋人の養生家は一週間に一度必ず食べると極めているそうです。犢の頭を一つ買いますと切り別けて脳味噌と舌と顔の厚皮の美味い肉が取れますから大層徳用です。牛の肝臓もケンネ脂に包まれている腎臓も心臓も胃袋も料理法次第で結構に戴けますから安直なお料理は沢山出来ます。食慣ると牛の肉よりもこういう臓物の方が好きになるそうです」小山「いずれまた臓物の料理を教えて戴きましょう、今のお料理の次は何が出ます」お登和嬢「野菜料理の出る順序ですから西洋の白瓜に致しましょう。中位な処なら二つで十二銭位です。その皮を剥いて二つに割って種を取って塩湯で四十分間ほど湯煮て水嚢の上へ揚げておいてよく水を切ります。別に例の通りバターでメリケン粉をいためて牛乳を注して塩胡椒で味をつけた白ソースをその白瓜へかけて十人前にして出しますと皆んなで二十五銭位かかります。その次が留めの肉といって一番終いにロース物が出るかあるいはサラダが出る場合ですからロースポーク即ち豚のロースに致しましょう。これは先刻お話し申したお弁当料理の通りでよいのですが十人前に二斤使うとすれば四十四銭、外の入費を十一銭と見て五十五銭なら出来ます。さてお料理の後にお菓子が入用ですね。コルンスタッチ即ち玉蜀黍の粉のブラマンジに致しましょう。それは牛乳二合へ砂糖大匙四杯入れて火の上で沸かして別にコルンスタッチ大匙五杯を別の牛乳かあるいは水で溶いて今の牛乳へ加えてドロドロになるまでよく攪き廻しながら煮て、それをブリキの型へでも丼鉢へでも入れて水の中でもあるいは氷の中ででも冷し固めます。別に日本の桃を煮ておいてこのブラマンジの周囲へ添えて出します。お客は好き自由にブラマンジを切り取って桃と一緒に食べるとどんなに美味うございましょう。これが桃と両方で三十銭位かかりましょうね」
参考文献
- 『食道楽・秋の巻』:明治三十六年(第二百五十・牛の尾)