旅の弁当(食道楽)
旅の弁当(たびのべんとう)は、明治36年(1903年)に出版された村井弦斎の小説『食道楽・秋の巻』で赤茄子が登場する項である。
第二百十三 旅の弁当
玉江嬢は料理法を習うに熱心なり「鮎の鮨はどうして拵えます」お登和嬢「あれは鮎を開いて骨を抜いて塩を当てて塩が浸みたら上等の酢へ漬けて二、三時間以上置きまして御飯へは極く上等の酢と塩とを入れて炊きます。
あるいは炊いた御飯へ酢と塩とを混ぜても出来ますが炊いた方が結構です。
もし酢が悪くって甘味が少ければ少しのお砂糖を加えてもようございます。
その御飯を鮎の腹へ溢れ出す位に詰めて手でよく抑えてそれから鮓箱へ入れますが鮓箱がなければ落し蓋のある箱へ並べて薄く切った生姜をバラバラと載せて蓋の上から圧石をしておきますと半日位で食べられます」と語るに連れて広海子爵東海道の鮨を連想し「お登和さん、長雨が続いて鮎が少しもない時分でも鮎の鮨を売っていますね、あれはどうして保存するのでしょう」お登和嬢「あれは開いた鮎へ沢山な塩を当てて樽へ詰めて圧石を置いてちょうど沢庵漬のようにしておきます。
そうすると二月でも三月でも持ちます。
それを使う時は水へ鮎を入れて南天の葉を交ぜておきますと二、三時間で塩が抜けます。
それを鮎の鮨に拵えたのですからそういう風にしたのは鮮しい魚で拵えたのと大層味が違います」広海子爵「全体汽車で旅行をする時一番困るのは食物ですね。
汽車の窓から腹塞に買う食物は気味が悪くって滅多に食べられません。
殊に暑い時分はなおさらです。
中川さんは旅行する時どうなさいますか」中川は何か饒舌たくて溜まらぬ処「ハイ私は手製の弁当を持って歩きます。
一度や二度の弁当で済む時ならばお登和にサンドウィッチを拵えさせますが手製のサンドウィッチを食べては買った品を食べられません。
売っているサンドウィッチは大概ハムをパンの間へ挟んだのですが宅では色々のサンドウィッチを作ります。
先ず手軽いのが玉子のサンドウィッチで湯煮た玉子を黄身も白身も一緒に裏漉にして塩を少しとバターとを好きほどに混ぜて煉ります。
パンの薄く切ったのへバターを塗って今の玉子を挟んで両方から合せてまた小さく切って紙へ包めばポッケットへでも何処へでも入ります。
極く急ぐ時にはジャムばかりを塗っても出来ます。
赤茄子のサンドウィッチは大層結構ですが、毎度お話に出るマイナイソースを少し固く拵えてパンへ塗って生の赤茄子へ沸湯をかけて丸のまま皮を剥いて薄く切ってパンの間へ挟んで小さく切ります。
外の野菜やチサ菜のようなものでもその通りにして出来ます。
それからパンの方へバターを塗りその上へ溶いた芥子を塗ってパンの間へ牛肉のロースか鳥のロースを挟んで小さく切っても出来ますが、丁寧にすればその肉を肉挽器械で挽いてバターと塩と溶き芥子と外に細かく刻んだ玉葱でも交ぜて少し煉るようにしてパンの間へ挟むとようございます。
あるいは鑵詰の鰯の皮と骨を除って挟んでも出来ます。
ハムのサンドウィッチは今のようにパンへバターと芥子と塩を塗ってザット湯煮たハムを挟むのです。
よく外の人はハムを湯煮ずに食べますがあれは極く危険です。
こんな弁当は汽車中ばかりでありません。
会社へ出るとか役所へ出るとかする人は腐りかかった弁当飯を取寄せて食べるより自宅で美味いサンドウィッチを拵えて持って行く方がどんなに利益だか知れません。
主人が外へ出て弁当飯を食べるのは妻君の恥辱と申してもいいのです。
遠くへ旅行する時にはサンドウィッチの外に食品屋からポテットミートと申して砕き肉の料理した極く小さい鑵詰を買って途中でそれをパンへ塗って即席のサンドウィッチを作ります。
西洋人もよくそうしていますがなかなか便利です」と我邦の旅行者は平生最も食物に注意を要す。
登場する料理
参考文献
- 『食道楽・秋の巻』:明治三十六年(第二百十三・旅の弁当)