冷やし中華

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冷やし中華(英:Hiyashi Chūka)


発祥

揚子江菜館

『五色涼拌麺』揚子江菜館

東京都千代田区神田神保町にある1906年(明治39年)創業の揚子江菜館は神田で現存する最古の老舗であり、「冷やし中華」発祥の店として知られている。 揚子江菜館は明治39年以前から「支那そば」という店名で営業していたが店名を改めた創業年にしている。 創業者で初代の周所橋(しゅうしょきょう)は、魯迅、蒋介石、周恩来と同じ浙江省寧波の出身で寧波華僑総会、神田中華組合を創立し、初代会長を務めていた。 店は大正12年(1923年9月1日)に起きた関東大震災を経て、昭和初期に西神田から現在の神保町すずらん通りに移転した。 二代目・周子儀(しゅうしぎ)、三代目・周祖基(しゅうそき)と継承され、四代目・沈松偉(ちんしょうい)氏の体制で現在に至る。 揚子江菜館では五色涼拌麺を通年で提供している。

時代背景

清朝末期(1860年~1890年)、清国では弱体化した国力再建のため、西洋近代文明の科学技術を導入しようと「洋務運動」が起きた。 日本の明治維新を手本にするべく、日本や西洋の学問を学ぶために多くの中国人留学生が日本へと渡ってきた。 当時、革命家として留学生の間で英雄的存在だった孫文、魯迅、周恩来も学生街の神田で学問を学んでいた。 神田はその基点となり、留学生は明治37年(1904年)には1,000人に達し、明治後期には5万人もの留学生が日本へ訪れていた。 淡泊な日本食があまり口に合わない彼らの空腹を満たし、安くて栄養のある故郷の味を提供しようと中華料理店が続々と出来ていった。 東京神田区は100店を超える中華料理店が連なり中華街さながらであった。 揚子江菜館の初代は貧しくお金のない留学生には「都合のいいときでいい」と料理を振る舞っていたという。 悲劇の女性革命家として知られる清朝末期の革命家、秋瑾(しゅうきん:1875年11月8日 - 1907年7月15日)も留学生時代に訪れていた。

五色涼拌麺の誕生

元祖冷やし中華とされる五色涼拌麺(ごもく冷やしそば)は、揚子江菜館・二代目が1933年(昭和8年)に考案したものである。 初代の周所橋の長男で二代目である周子儀(しゅうしぎ)は生まれも育ちも日本であり国籍も日本人となった。 タレは三杯酢を基に日本人の口に合うように考案したという。 この甘酢は、揚子江菜館のメニューである古老肉(すぶた)、芙蓉蟹(かに玉)、肉丸子(肉団子の甘酢掛け)、唐醋子鶏(ひな鶏の唐揚げ甘酢掛け)などの甘酢あん料理のベースにもなっている。 二代目は当時の神田区連雀町(現・千代田区神田須田町と神田淡路町)にあった明治14年(1884年)創業で現在も老舗蕎麦屋で知られる「神田まつや」(神田須田町)の蕎麦が好物で、「中華そば」で「ざる蕎麦」のような料理をという着想から考案したという。 盛り付けは当時は神保町からも見えた富士山に見立てて「雲を頂く富士山の四季」をイメージして高盛りにした。 具材は、チャーシュー、キュウリ、メンマ、糸寒天、錦糸卵の五色で彩り、チャーシューで春の大地、キュウリで夏の新緑、煮込んだメンマで秋の落ち葉、糸寒天で冬の雪、錦糸卵で富士山の頂上にかかる雲を表現している。 他に絹さや、海老、しいたけが添えられ、中にはウズラの卵と肉団子が忍ばせてある。 麺は甘酢たれと絡みやすいように仕上げた細麺の卵麺が使われている。 時代・歴史小説作家の池波正太郎(大正12年:1923年1月25日 - 1990年5月3日)は、二代目・揚子江菜館へ頻繁に通う常連客の一人で彼のエッセイにも登場する。 日本酒が好きだった池波流の食べ方は、焼売と五色涼拌麺の具を肴にして酒を飲み、〆に麺を頂くという食べ方だった。

龍亭

『涼拌麺』龍亭

宮城県仙台市青葉区にある1931年(昭和6年)創業の中国料理 龍亭は、揚子江菜館と並んで「冷やし中華」発祥の店として知られている。 創業者で初代の四倉義雄(よつくら よしお)は、明治29年(1896年6月15日)に起きた明治三陸地震による津波被害の記憶から、石巻市から地盤の固い仙台市内へ移住した。 当初は和菓子職人をしていたが、時代の求めに応じて食料品店を開き、その後、支那そば(中華そば)屋になった。 創業者で初代の四倉義雄(よつくら よしお)は、仙台支那料理同業組合(現・宮城県中華飲食生活衛生同業組合)の組合長を務めていた。 四代目・四倉暢浩(よつくら のぶひろ)氏の体制で現在に至る。 龍亭では涼拌麺を通年で提供し、週末に訪れる客の8~9割が注文するという名物料理になっている。 また、仙台市も他の地域と異なり、冷やし中華を通年で提供している。

時代背景

昭和12年(1937年)7月7日、中国の北京郊外の盧溝橋(ろこうきょう)で夜間演習中の日本軍が兵1名の行方不明から中国軍(中国国民革命軍第二十九軍)と武力衝突した「盧溝橋事件」(中国:七七事变)が勃発した。 1937年7月7日夜、北京市豊台区に駐屯する支那駐屯軍(大日本帝国陸軍の駐屯軍)の支那駐屯歩兵第一聯隊第三大隊第八中隊が盧溝橋近辺の河原で夜間演習中に実弾を撃ち込まれ、兵士が一名行方不明となった。 のちに行方不明の兵士は発見されたが、散発的な射撃があり、翌朝、日本軍・第三大隊は中国軍が駐屯する宛平県城(現・北京市南西部)を攻撃した。 その後、9日停戦協定成立、中国軍責任者の処罰が決定された。 しかし、日本政府、軍部は中国側の計画的な武力抗日として11日以降に渡る派兵をし、のちに日中戦争に拡大することになる。

日中戦争の火蓋が切られんとしていた当時、仙台はのんびりムードであったという。 仙山線(仙台-山形間:現・JR東日本)の開通を受け、近隣都市から仙台への観光客や出稼ぎ人口が増えるとともに、外食産業も大いに活性化した。 しかし、冷房がない時代、暑い夏に熱くて脂っこい支那そば(中華そば)は敬遠され、店はどこも閑古鳥であった。 この厳しい現状の打開策、その命綱は組合長の四倉義雄に託されることとになる。

涼拌麺の誕生

元祖冷やし中華とされる涼拌麺(りゃんばんめん)は、龍亭・初代が1937年(昭和12年)に考案したものである。 初代・四倉義雄の記した資料には「昭和十二年、全国の業界に先駆けて、涼拌麺を開発し・・・」という記録が残っている。 当時の中華料理店では、現代とは違い冷房などもなく、油っこく、熱いというイメージの中華料理は敬遠されがちで、夏場の売り上げの落ち込みは厳しくとても深刻なものだった。 そこで暑い中でも食べられる冷たい麺料理の開発に取り組み、夏バテ防止に栄養のバランスを考え、野菜をふんだんに使い、食欲増進に酸味を加え、試行錯誤の末に考案されたのが凉拌麺である。 初代の四倉義雄は仙台支那料理同業組合のメンバーを集め、考案した凉拌麺を披露したことが始まりとされる。 当初の具材は、茹でキャベツ、塩もみキュウリ、スライスしたニンジン、チャーシュー、トマトを盛ったものだった。 当時、支那そば(ラーメン)が1杯10銭に対して涼拌麺は25銭であったことから庶民的な食べ物ではなかったと思われる。 また、初代のレシピそのままで涼拌麺を再現したことがあったが、その味はとても酸っぱくて、塩っぱかったと四代目・四倉暢浩氏は語っている。

消滅と復活

初代の四倉義雄が生み出した涼拌麺は、戦中の配給制度、食糧難や物資不足の影響を受けてメニューから姿を消すことになる。 昭和20年代後半、戦前の組合は「仙台中華麺業組合」として再結成され、涼拌麺のPR活動に取り組み、発売開始を祝い、「涼拌麺」と書かれたのぼりを掲げてパレードも催され、仙台の多くの中国料理店で味わえる夏の風物詩になったのである。 龍亭は、1965年(昭和40年)まで初代の涼拌麺を踏襲していた。 1964年東京オリンピック(昭和39年10月10日 - 10月24日)の時期、龍亭で働いた中国出身の料理人の中に、具材の千切りを提案した人がいたという。 細長い麺と共に味わうため、具も細長く切った方が調和し、食べやすく、何よりおいしいということでこの調理法は採用された。

地域

『冷めん』中華のサカイ
『呉冷麺』珍来軒