「トマト年表」の版間の差分

提供: Tomatopedia
ナビゲーションに移動 検索に移動
39行目: 39行目:
 
<p>イギリスの床屋で外科,植物学者の[[ジョン・ジェラード]]が、フランス人とイタリア人がトマトを食べたことを認めながらも、トマトは有毒​​であると述べた本、The Herball or Generall Hiftorie of Plantesを出版。</p>
 
<p>イギリスの床屋で外科,植物学者の[[ジョン・ジェラード]]が、フランス人とイタリア人がトマトを食べたことを認めながらも、トマトは有毒​​であると述べた本、The Herball or Generall Hiftorie of Plantesを出版。</p>
  
==== 🍅 1527年 ====
+
==== 🍅 1639年 ====
 
<p>フィリペ4世の妻であるフランスのエリザベス女王が料理にトマトが多すぎるとして、わずかに無気力になる。</p>
 
<p>フィリペ4世の妻であるフランスのエリザベス女王が料理にトマトが多すぎるとして、わずかに無気力になる。</p>
  

2021年5月27日 (木) 18:57時点における版

🍅 紀元前200年

メキシコシティ南東のテワカン渓谷にある洞窟の発掘調査で紀元前200年前の地層からトマトの種子が見つかる。

🍅 紀元前300年

マヤ(メキシコ・グアテマラ・ホンジュラス周縁で栄えた文明)

🍅 西暦700年

🍅 1428年

アステカ(メキシコ中央部で栄えたメソアメリカ文明)

🍅 1492年10月

クリストファー・コロンブスが同年8月にサンタマリア号で出航、東方のジパングを目指し新大陸に漂着する。

🍅 1519年

スペインのコンキスタドール(征服者)であるエルナン・コルテスが、キューバ総督ディエゴ・ベラスケスの命令に違反してメキシコに上陸、侵攻を開始する。

🍅 1521年

エルナン・コルテスがメキシコ高原のテノチティトランを征服、アステカ帝国が滅亡する。

🍅 1527年

エルナン・コルテスがスペインに一時帰国。
その際にトマトを祖国に移入した可能性。

🍅 1544年

イタリア(トスカーナ)の医師で植物学者であるピエトロ・アンドレア・マッティオリがトマトを含む文献を出版。
黄金の林檎(Poma aurea)と名付ける。
トマトは食べれるかもしれないが現時点でそれを消費している人の記録はないことを示唆。

🍅 1548年10月31日

フィレンツェ共和国(イタリア)の銀行家で公爵であるコジモ・デ・メディチの執事が、デ・メディチの個人秘書に「トマト(Pomi d'oro)のバスケットが届いた」と書き、トマトがPomi d'oroとしてイタリアで最初の名前を与えられる。
それまで、Pomi d'oroは科学者が論文でイチジク、メロン、柑橘類を指すものとして使われていた。

🍅 1592年

フィリペ2世により、スペイン(カサ・デ・カンポ)の祭司に任命された植物学者であるグレゴリオデロス・リオスによって書かれたAgricultura de jardines(園芸農業)という著書の中でスペインで初のトマトの栽培に関する内容が登場する。

🍅 1597年

イギリスの床屋で外科,植物学者のジョン・ジェラードが、フランス人とイタリア人がトマトを食べたことを認めながらも、トマトは有毒​​であると述べた本、The Herball or Generall Hiftorie of Plantesを出版。

🍅 1639年

フィリペ4世の妻であるフランスのエリザベス女王が料理にトマトが多すぎるとして、わずかに無気力になる。

🍅 1692年

貴族、バルベリーニ枢機卿の料理人であるアントニオ・ラティーニがトマトソースのレシピ本を出版。

🍅 1710年

イギリスのウイリアム・サーモンがアメリカ(イギリス北領)サウスカロライナで栽培されているトマトを見たと報告。

🍅 1745年

スペイン(フランシスコ会)修道士のシェフであるフアン・アルタミラス(アゴラン出身)よってトマトを使ったスペイン料理の本、Nuevo arte de la cocinaが出版される。

第3代アメリカ合衆国大統領であるトーマス・ジェファーソンが、ユダヤ人の友人であるジョン・デセケイラ博士が、1745年にウィリアムズバーグ(バージニア州)に到着した後、バージニアにトマトを紹介したと書く。

🍅 1758年

イギリスの料理作家であるハナー・グラスによると、1750年代、トマトはイギリスではスープで食べられていた。

🍅 1779年

フランスの園芸雑誌、ル・ボン・ジャルディニエ(Le Bon Jardinier:1755年 - 1781年刊行)でトマトでソースを作ることが可能だと紹介された。

🍅 1785年

イタリアの貴族であり作曲家で料理人であるイポリト・カヴァルカンティ公爵がトマトソースとパスタを合わせたレシピ本を出版。

🍅 1770年

アメリカで最も初期のトマト料理のレシピが、サウスカロライナで出版される。

🍅 1790年

ヨーロッパを渡り歩いたローマの料理人、フランチェスコ・レオナルディがトマトソースとパスタを合わせたレシピ本を出版。
イタリアではトマトを最初に使った人の一人でパスタとトマトソースをあわせた古典的な料理の起源と捉えている。

🍅 1792年

フィリップ2世のアランフェス(スペイン・マドリード州南部)の植物園の主任庭師が「ソースに良いと言われています」と書いた。
しかし、一般的には装飾用の植物とされ、料理用としてめったに使われなかった。
フィレンツェ(イタリア・トスカーナ州)の貴族、ジョヴァン・ヴィットリオ・ソデリーニは「彼らは美しさだけだけを求められた」と記している。

🍅 1799年 - 1825年頃

アレッポ(シリア北部にある都市)のイギリス領事であるジョン・バーカーによって北アフリカと中東にトマトが紹介され栽培が導入される。

🍅 1780年

トマトの味など品種改良に大きな功績を残したトマトブリーダーであるアレクサンダー・W・リヴィングストンが20年の歳月を費やしてパラゴントマトの栽培に成功する。
パラゴン品種は、現代の多くのトマトの祖先と見なされている。

🍅 1820年9月26日

まだトマトには毒があると信じられていた時代、アメリカ(ニュージャージー州セーラム郡)の裁判所前でジョンソン大佐として知られるロバート・ギボン・ジョンソンが「トマトを食べてみせる」と言い、それに2000人もの群衆が集まり、食べる姿を見て怒号や悲鳴、失神する女性も出たが最後は歓声で終わった。

🍅 1873年5月1日 - 10月31日

一般的には、まだ非常にエキゾチックに映っていたトマトはハンガリー帝国(オーストリア)のウィーン万国博覧会で人の目を引く植物として展示された。

🍅 1883年

Nix v. Hedden

🍅 1886年

🍅 1893年

アメリカの税関規制の下で、トマトは果物ではなく野菜として分類されるべきであるという決定を合衆国最高裁判所がしたことで一連のNix v. Hedden問題が解決。

🍅 1940年半

スペイン(ブニュール)でトマティーナが始まる。

🍅 1959年

毎年段々と過激になってきたことを受けてブニュールでトマティーナのルールが制定される。

1961年

世界中で約2,800万トンのトマトが生産された。

🍅 1988年

グッドモーニングアメリカ(ABCで放送されている朝の情報番組)は、ジョンソン大佐がアメリカで最初にトマトを食べたと報道した。