「ベルジャン・フリッツ」の版間の差分

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バス、キャンピングカー(キャラバン)、鉄道車両を問わず、ほとんどの場合は役目を終えた車両かスクラップ行きの車両を利用しており、エンジンが稼働する車両があるにせよ、ナンバーもないため、キッチンカーのように公道を移動することもない。
 
バス、キャンピングカー(キャラバン)、鉄道車両を問わず、ほとんどの場合は役目を終えた車両かスクラップ行きの車両を利用しており、エンジンが稼働する車両があるにせよ、ナンバーもないため、キッチンカーのように公道を移動することもない。
主に殺風景な空き地のような場所にあり、投棄された車のごとく野ざらしになっているため、その風貌はバラックに引けを取らない。
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主に殺風景な空き地のような場所にあり、投棄された車のごとく野ざらしになっているため、その風貌はバラックに引けを取らない店もある。
  
 
日本でも廃車両を利用したスタイルが過去に存在し、一時は「バスラーメン」というジャンルで呼ばれるほどの時代があった。
 
日本でも廃車両を利用したスタイルが過去に存在し、一時は「バスラーメン」というジャンルで呼ばれるほどの時代があった。

2023年6月5日 (月) 06:10時点における版

ベルジャン・フリッツ

ベルジャン・フリッツ(Belgian Fries)は、ベルギーの代表的な国民食であり、ベルギーに訪れる観光客の間でも必食の名物である。

概説

起源

小魚のフリッツ『プティ・ポワソン・フリッツ』
フリッツ店の最古の写真
(トゥルネー民俗博物館)1885年

起源は、15世紀初頭にスペイン人が新世界からジャガイモをヨーロッパに持ち込み、その200年後の17世紀に始まる。 現在のベルギー東部のリエージュ、ベルギー南部のナミュール州のディナンやアンデンヌの貧しい人々が、ムーズ川で小魚を獲って揚げて食べていた料理が起源で、冬になると川が結氷(けっぴょう)するため、ジャガイモを同じ要領で調理して誕生したとされる。

ムーズ川(フランス語:Meuse)は、オランダ語やドイツ語ではマース川(Maas)とよばれる西ヨーロッパの川で、フランスを源流とし、フランス、ベルギー、オランダを約950km経由して北海へ注ぐ川である。 ムーズ川には、大型の淡水魚も生息するが、小魚類も多数生息しているため、当時の小魚の揚げ物には多種の雑魚が利用されたと思われる。 現在は、複数種の小魚を揚げたものは家庭で作られるかもしれないが、レストランでは一種類が一般的で、「プティ・ポワソン・フリッツ」(Petits Poissons Frits)の名で知られている。

もう一つの伝承では、ジャガイモのフリッツが初めてベルギーに登場したのは1850年頃で、ムッシュ・フリッツ(Monsieur Fritz)と呼ばれるベルギーの露天商が、移動式の屋台車両(フードトラック)で売り始めたのが始まりとされている。 この露天商の名である “ フリッツ ”(Fritz)が、料理名の “ フリッツ ”(Fries)の語源であるという。 彼はフランスのモンマルトルのレストランで調理法を学び、ベルギーに帰国したといわれている。

特徴

マヨネーズ & ケチャップ
  • サイズ:ベルジャン・フリッツは厚く太め(約1cm)のスティック状。
  • :牛の脂、または牛の脂と馬の脂を混合した独特の油で揚げられる。
  • 揚げ方:二度揚げをするのが基本である。 二度揚げは20世紀初頭に生まれた技法で、二つのフライヤーを利用する。 まずは160℃の油で5分間揚げた後、油をよく切り30分置く。 その後、180℃の油で1分ほど揚げて黄金色に仕上げ、油をよく切って完成する。 保温器は一切使用せず、注文を受けてから仕上げるため、熱々の揚げたてが供じられる。
  • 味つけ:揚げた後の味付けは塩のみで胡椒は使われないのが一般的である。 また、無塩のまま提供され、用意された塩を客が好みの量かける場合もある。
  • ソース

ベルギーのフリッツ文化

フリットコット

ベルジャン・フリッツの屋台(ベルギー首都・ブリュッセル)

フリットコット(Fritkot)は、屋台のスタイルを踏襲するフリッツ専門店である。 車両ごと移動可能なフードトラック(日本でいうキッチンカー)は行政の許可を得るのが困難となり、時代と共に徐々に姿を消しつつある。

2007年には、ベルギー北部を占めるフランデレン地域の2つの自治体が、公道でのフリッツ販売を全面的に禁止した。 ノール=パ・ド・カレー地域でも、同じような傾向が見られ、店舗型に移行しつつある。 しかし、見本市(Foire:フォワール)、守護聖人祭(kermesse:ケルメス)などのフェアや縁日バザー、コンサート、スポーツイベント、スタジアム周辺、遊園地、競馬場など多くの人々が集まる場所では、依然として風物詩の役割を担い、その存在感を示している。 現在では、当局の指導で牽引可能なトレーラーに姿を変え、営業場所が固定化されている場合が多い。 フリットコットの “ コット ”(kot)とは “ 小屋 ” の意味である。

フリッターリ

ベルジャン・フリッツ専門店
(ベルギー首都・ブリュッセル)

ベルギーには、フリッターリ(Friterie)とよばれるフリッツ専門店が 5,000軒近くあり、首都ブリュッセルにとどまらず、各地方や村に至るまで存在する。 ベルギー国民の25%は少なくとも週に1回、年間では80%の人々がフリッターリに通う。 ベルジャン・フリッツは、ベルギー人にとって、社会的地位、貧富、出身、言語、宗教を超えた儀式、習慣、および文化である。

この文化は、ベルギー本土とベルギー国境地域であるフランス北部とオランダ南部を除いて見られない。 ベルジャン・フリッツは、グローバリゼーションの波によって世界中に点在するファストフードのメニューにも波及し、フリッツ店はそれらファーストフード店と混同されがちだが、ベルギー国民にとって重要性をもつ食文化であり、アイデンティティである。

フリッツ店の派生スタイル

仮設型

フリットバラカ

セントピーターズ教会のキリスト像とフリットバラカ(ウェスト=フランデレン州・トルホウト)1960年~1980年
古いフリットコットに貼られた誹謗中傷「町の恥」
サン・テュベール教会にある近代的なフリットバラカ(ナミュール州・アン=シュル=レス)

フリットバラカ(Frietbarak)は、バラック(掘っ建て小屋)スタイルのフリッツ専門店で、近代的な「フリットコット」の始祖である。 初期のフリットバラカは、廃材や合板、トタンなどを組み合わせて即席で設営した文字通りのバラックであり、シュールでカオスな店構えが大きな特徴である。 フリットバラカは日本で例えるなら、多くが姿を消した屋台やチャルメラのように、知らない世代の人々にとってもノスタルジックな存在であり、古来のフリッツ店の姿として、ベルギー国民の誰もが思い浮かべるスタイルである。

現在では、たとえば秘境と呼ばれるような場所で、尚かつ熱狂的で口の堅いコアなファンやマニア限定であれば、ある程度の営業は可能かもしれないが、現実問題としては見つかり次第「即撤去」の対象であるため、公(おおやけ)な営業は困難である。 すでに天然記念物に近く、市街地で見かけることは不可能に等しい。 郊外で神出鬼没に出現したところに偶然出会った、もしくは催事などの話題の一環として公式的に仮設されて拝見できるレベルである。 もし、似たような外観の店を見つけたとしても、それは古来のフリットバラカのように独立した小屋ではなく、別の建物にテイクアウト用の窓口として併設されたバラック風が大半である。

本来のバラックから進化したプレハブ工法のようなフリットバラカも生まれ、この両者は 1950年から1980年にかけて主流のスタイルとして非常に人気が高かった。 多くの歴史的建造物や教会に至るまで点在し、“ 外観的カオス ” と “ 景観的カオス ” が入り混じりながらも、敷居の低さで多くの庶民に愛された経緯がある。

しかし、その後、街の景観に支障をきたす根源として急速的に淘汰され、姿を消していった。 古来のリアルなバラック系は早い段階で姿を消し、それはプレハブ系にまで及んだ。 ベルギーには、現在でもフリッツ店のない市、自治体、村は存在しないが、全盛期には50,000軒あった店が10分の1の5,000軒にまで激減したのである。

近年では、行政の強制執行で解体されるケースや地域の議員の扇動に賛同した抗議運動、さらに “ 汚い、不衛生 ” などの助長したバッシングを一方的に受け、営業が困難となり、閉店に追い込まれるケースもある。 しかし、これらの多くは既に「絶滅」もしくは「風前の灯」となったフリットバラカではなく、フリットコットに向けられたものである。 経年による古めかしい外観のフリットコットは、フリットバラカとの境界線を失い、年季の入った外観で店内空間が雑然としたフリットコットも混同され、中には 80年近く営業していた老舗が閉店、解体、移転を余儀なくされた事態も起きており、それを惜しむ人々もいる。 このような典型的な動きは、国外(または欧州外・ユーロ通貨圏外)の大規模な資本系ファーストフードの参入、または自国に上場する多国籍企業チェーンの独占を招き、いずれは一極集中型の流れを産み、本来あるべき伝統的な姿が歪曲されて置き去りになる傾向になりかねない。 また、これはのちに「ベルジャン・フリッツ・ショック」なるものを自在に引き起こせるスイッチボタンにもなるのである。

一方、地域によってはフリットバラカを少なからず保護する動きもあり、復活をとげ、保守されている場所もある。 日本でも、あらためて時代を振り返った時、数少なくなったイニシエ系の店の存在が貴重であることを知り、雑然とした店内は、まるで時間の流れが止まったかような博物館級の空間を演出し、古き大衆文化の情緒・風情が味わえるグルメスポットとして世代を超えて理解され、どうにか絶滅を免れている。 真の美食家は、美食の一環として高級店にも足を運ぶが、庶民的な食べ物であろうと外観や店内がどうであれ、歴史や文化を味わい、探求する心の旅人のようなもので、フリットバラカは、そのような人たちにも陰で愛される存在であり続けるだろうと思われる。 フリットバラカは、ベルギーの象徴および無形文化遺産となったフリッツ文化の根本である。

廃車両型

キャラバンタイプのフリッツ屋台

バス、キャンピングカー(キャラバン)、鉄道車両を問わず、ほとんどの場合は役目を終えた車両かスクラップ行きの車両を利用しており、エンジンが稼働する車両があるにせよ、ナンバーもないため、キッチンカーのように公道を移動することもない。 主に殺風景な空き地のような場所にあり、投棄された車のごとく野ざらしになっているため、その風貌はバラックに引けを取らない店もある。

日本でも廃車両を利用したスタイルが過去に存在し、一時は「バスラーメン」というジャンルで呼ばれるほどの時代があった。 しかし、全国的に存在した通称「廃バスラーメン」は消滅の一途をたどり、特に最多で有名であった和歌山県はマニアの間では文化遺産とまで呼ばれていたが、徐々にその数を減らし、唯一残っていた最後の一軒が、2019年9月に廃業した時点で、本当の意味でのレトロな廃バスラーメンは事実上、絶滅している。

移動車両型

車両ごと移動可能なフードトラック(日本でいうキッチンカー)は、行政の許可を新規で得ることが困難となり、許可証を持っていたとしても更新不可による失効で、時代と共に徐々に姿を消しつつある。

2007年には、ベルギー北部を占めるフランデレン地域の2つの自治体が、公道でのフリッツ販売を全面的に禁止した。 ノール=パ・ド・カレー地域でも、同じような傾向が見られ、店舗型に移行しつつある。

現在では、当局の指導で牽引可能なトレーラーに姿を変え、営業場所が固定されている場合が多い。 見本市(Foire:フォワール)、守護聖人祭(kermesse:ケルメス)などのフェアや縁日バザー、コンサート、スポーツイベント、スタジアム周辺、遊園地、競馬場など多くの人々が集まる場所では、依然として風物詩の役割を担い、その存在感を示している。

常設店舗型

  • 屋台
    • 仮設型
      • フリットバラカ Frietbarak
        • フリットコット Fritkot
        • 廃車両の利用
          • バス Busfrituur
          • キャラバン Caravanfrituur
          • 電車 ('
    • 移動車両型
      • フードトラック
        • トレーラー
    • 常設店舗型
      • テイクアウト専門店


フリッツ博物館

フリッツ博物館の門と看板
フリッツ博物館の全景
(ベルギー・ブルージュ)

フリッツ博物館(Friet Museum)は、2008年5月に開館したベルギーのブルージュにある博物館で、ジャガイモとフリッツに特化した世界で唯一の博物館であることを誇りにしている。 世界中の観光および旅行ガイドを出版しているロンリープラネット(Lonely Planet)のガイド「ベスト・イン・トラベル 2013」では、「世界の奇妙な食べ物博物館 10」で紹介されており、今日も人気の博物館である。

ブルージュの都市中心部は、レンガ造りのゴシック建築の街並みが何世紀にもわたって残っており、「ブルージュ歴史地区」(Historic Centre of Brugge)として、ユネスコ世界遺産に登録されている。 芸術においては、初期フランドル派の発祥の地であり、ヤン・ファン・エイク(Jan van Eyck:1395年頃 - 1441年7月9日)や ハンス・メムリンク(Hans Memling:1430~1440年頃 - 1494年8月11日)などの芸術家の絵画発展の中心地であった。 16世紀の宗教戦争とフランス革命を除き、第一次世界大戦や第二次世界大戦、その他の紛争による荒廃を免れ、19世紀の産業革命でも、市の南西部にある鉄道駅を除いて、町の構造はほとんど影響を受けていない。

フリッツ博物館は、世界遺産に登録されている「ブルージュ歴史地区」にあり、1399年に建造された歴史的指定建造物を利用している。

呼称問題

ベルジャン・フリッツは、「フレンチ・フライ」(French fries)の名で広く伝わった。 現在もベルギーの公用語が、フランス語・ドイツ語・オランダ語であるように、第一次世界大戦中、ベルギーでフランス語を話す地域に駐留していたアメリカ兵は、自分たちがフランスにいると勘違いしていたことに起因する。 この料理を食べた兵士たちは「フレンチフライ」という呼び名をつけた。

定番のソース

社会・時事

  • 2008年05月01日:フリッツ博物館(Friet Museum)がベルギーのブルージュで開館。
  • 2009年11月30日:ワロン地域農業大臣の主導のもと、第1回「フリッツ週間」(Semaine de la Frite:セメーヌ・ドゥ・ラ・フリテ)が同年12月06日までベルギー南部のワロン地域で開催された。
  • 2014年01月10日:ベルギーのフランドル地方はフリッツ店を無形文化遺産として認定した。 ユネスコ無形文化遺産の登録を目指す。
  • 2014年12月22日:ベルギーの女性解放思想団体「リリス」(Liliths)を名乗るメンバーらは、緊縮財政と社会モデルの破壊に抗議するため、ベルギーの首相であるシャルル・ミシェル氏が講演中、フリッツを投げつけ、マヨネーズをかけるという “ パイ投げ ” ならぬ 史上初のフリッツ襲撃を行った。ミシェル氏はマヨネーズだらけになるも笑顔だった。 リリスはトップレスで抗議活動を行うことで世界的に有名なフェミニズム団体「フェメン」(FEMEN)の元メンバーで学生であった。
  • 2016年04月28日:ベルギーの音楽ラジオ局「Radio Contact」のダヴィッド・アントワーヌ率いるプロジェクトチームはブリュッセルの中心部から直径10メートルの風船にベルジャン・フリッツを取り付けて宇宙に向けて打ち上げた。 アントワーヌは “ 本物のフリッツはベルギー産だ ”(Les vraies frites sont belges)というメモを忍ばせた。
  • 2016年11月23日:ベルギーのフランス語共同体はフリッツ店を無形文化遺産として認定した。
  • 2016年11月23日:「フリッツ週間・2016」が12月04日までベルギー南部のワロン地域で開催された。 大使に任命されたベルギーの歌手、詩人であるジャン=リュック・フォンクは「One、Two、Frites、Four!」を作曲し、ラジオ局「ヴィヴァ・シティ」で流れた。
  • 2017年07月20日:ベルギーの無形遺産としてフリッツ店が正式に認定された。
  • 2018年07月:ベルギーの首都ブリュッセルの産業跡地である「トゥール・エ・タクシー」(Tour et Taxis)の開発に伴い、ストリート、広場、その他の路地の新たな名称を市民から公募し、参加者837名、1,397件の応募の中から “ フリット通り ” を意味する「パサージュ・ドゥ・ラ・フリテ」(Passage de la Frite)が決定された。 本来、名称には「歴史に関連した名前、あるいは歴史にちなんだ名前、近隣の英雄に敬意を表したもの、または地域の英雄に敬意を表したもの」を提案するよう促していた。
  • 2020年:トゥール・エ・タクシー(Tour et Taxis)の新しい地区の名称として「パサージュ・ドゥ・ラ・フリテ」(Passage de la Frite)が正式名称となった。

関連項目