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これは無邪気な少年心にも似た “ カメ退治 ” という表現が相応しい。 | これは無邪気な少年心にも似た “ カメ退治 ” という表現が相応しい。 | ||
彼はマンハッタンの裕福な友人グループを集めてハドソン川でカメ退治にのりだし、それぞれで自分の捕まえたカメの喉を切ったという。 | 彼はマンハッタンの裕福な友人グループを集めてハドソン川でカメ退治にのりだし、それぞれで自分の捕まえたカメの喉を切ったという。 | ||
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− | + | 同年6月、クラブの古株で退役軍人であったウィリアム・スパーブはクラブ存続のために、かつてハイアッツ・タバーン(アメリカ独立革命時代から続く重要な酒場)となっていたニューヨーク市ブロンクス地区にあるキングスブリッジホテルを購入した。 | |
ホテル裏手のスパイテン・ダイヴィル川に面した敷地には、宴会を催すための会場となる屋根と柱で出来た長い建屋があり、クラブ名が記されている。 | ホテル裏手のスパイテン・ダイヴィル川に面した敷地には、宴会を催すための会場となる屋根と柱で出来た長い建屋があり、クラブ名が記されている。 | ||
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− | “ | + | “ ホーボーケン・タートル・クラブの会員約200人が、昨日キングスブリッジホテルで行われた今シーズン4回目にして最後の朝食と夕食会に参加した。 |
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食事はスパイテン・ダイヴィル川のほとりの屋根の下で行われた。 | 食事はスパイテン・ダイヴィル川のほとりの屋根の下で行われた。 | ||
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同年までにクラブは、ニューヨーク市マンハッタンのターミナルホテルで会合を開くようになっていた。 | 同年までにクラブは、ニューヨーク市マンハッタンのターミナルホテルで会合を開くようになっていた。 | ||
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このスタイルは両派とも差異はなく、この粗野とも思えるディナーは紳士な大人の男たち限定の粋な嗜みであった。 | このスタイルは両派とも差異はなく、この粗野とも思えるディナーは紳士な大人の男たち限定の粋な嗜みであった。 | ||
− | イーストサイド派の本拠地は食肉市場のヴェルトハイマー& | + | イーストサイド派の本拠地は食肉市場のヴェルトハイマー&サンズ、ウエストサイド派の紳士たちの本拠地はターミナルホテルとなっていた。 |
− | + | そのターミナルホテルで最も頻繁にビーフステーキを食べに訪れるグループの一つが、ホーボーケン・タートル・クラブであった。 | |
当時は、ジャージーシティの精肉店、ビール醸造業者、酒場経営者、港湾労働者の元締め、実業家だけの排他的な団体でメンバーのほとんどが高齢者だったという。 | 当時は、ジャージーシティの精肉店、ビール醸造業者、酒場経営者、港湾労働者の元締め、実業家だけの排他的な団体でメンバーのほとんどが高齢者だったという。 | ||
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'''ボブ・エリス'''<br> | '''ボブ・エリス'''<br> | ||
[[File:Hoboken Turtle Club - Turtle Steaks.png|thumb|right|200px|『タートルステーキの調理』(1886年7月17日)]] | [[File:Hoboken Turtle Club - Turtle Steaks.png|thumb|right|200px|『タートルステーキの調理』(1886年7月17日)]] | ||
− | + | 年老いた黒人であるボブ・エリスはターミナルホテルのシェフであり、ステーキ職人である。 | |
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その他、ホーボーケン・タートル・クラブ、チェルシーのボウリングクラブである IDK (I Don't Know) などの公式シェフも務めていた。 | その他、ホーボーケン・タートル・クラブ、チェルシーのボウリングクラブである IDK (I Don't Know) などの公式シェフも務めていた。 | ||
かつてはウミガメ料理とクラムベイクの調理で定評の高いシェフでもあり、メニューの監修を依頼され、西はシカゴまで出張したこともあった。 | かつてはウミガメ料理とクラムベイクの調理で定評の高いシェフでもあり、メニューの監修を依頼され、西はシカゴまで出張したこともあった。 | ||
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[[File:Hoboken Turtle Club - THE DAY BEFRE THE FEAST PREPARING THE TURTLES, New York Times, Aug 28, 1898.png|thumb|right|200px|『宴会前日のカメの準備』ニューヨーク・タイムズ(1898年8月28日)]] | [[File:Hoboken Turtle Club - THE DAY BEFRE THE FEAST PREPARING THE TURTLES, New York Times, Aug 28, 1898.png|thumb|right|200px|『宴会前日のカメの準備』ニューヨーク・タイムズ(1898年8月28日)]] | ||
彼は、ステーキをヒッコリーの熾火で焼くことが昔ながらの正真正銘のステーキであることと、指で食べるのが嫌いな男はビーフステーキとは縁がないと語っている。 | 彼は、ステーキをヒッコリーの熾火で焼くことが昔ながらの正真正銘のステーキであることと、指で食べるのが嫌いな男はビーフステーキとは縁がないと語っている。 | ||
− | + | 彼はクラブの拠点となっていたキングスブリッジホテルのあるブロンクス地区に住んでおり、ターミナルホテルのオーナーであるハーマンは、ステーキディナーの予約が入るたびにエリスに電話をかけ、日付を伝えて出張で調理してもらったという。 | |
ボブ・エリスがホーボーケン・タートル・クラブの料理に携わったのは、クラブのウミガメスープの調理担当であったジョン・ターベルが極秘レシピを明らかにした翌年の1878年である。 | ボブ・エリスがホーボーケン・タートル・クラブの料理に携わったのは、クラブのウミガメスープの調理担当であったジョン・ターベルが極秘レシピを明らかにした翌年の1878年である。 | ||
− | + | ターミナルホテルのステーキについて “ 私はもう90歳に近いのだから、何が古典的であるかを知っているはずだ。” と語っているように、彼のステーキはウエストサイド・スクールであると同時にオールド・スクールでもあった。 | |
高齢でありながら現役であった彼は下積み時代からの叩き上げの料理人であり、いわば古き時代を知る生き証人である。 | 高齢でありながら現役であった彼は下積み時代からの叩き上げの料理人であり、いわば古き時代を知る生き証人である。 | ||
彼のステーキはヒッコリー(クルミ科ペカン属の木の総称)の薪で焼くのが特徴で “ ステーキを食べると広葉樹の風味と香りが口の中に広がるんだ。” と語っている。 | 彼のステーキはヒッコリー(クルミ科ペカン属の木の総称)の薪で焼くのが特徴で “ ステーキを食べると広葉樹の風味と香りが口の中に広がるんだ。” と語っている。 | ||
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[[File:Hoboken Turtle Club - A Gathering of the Members, New York Times, Aug 28, 1898.png|thumb|right|200px|『メンバーの集い』ニューヨーク・タイムズ(1898年8月28日)]] | [[File:Hoboken Turtle Club - A Gathering of the Members, New York Times, Aug 28, 1898.png|thumb|right|200px|『メンバーの集い』ニューヨーク・タイムズ(1898年8月28日)]] | ||
1930年末までにホーボーケン・タートル・クラブは解散したと伝えられている。 | 1930年末までにホーボーケン・タートル・クラブは解散したと伝えられている。 | ||
− | + | 明確な時期や理由については明らかになっていない。 | |
− | + | ターミナルホテルはステーキディナーがメインであったため、クラブとシェフのボブ・エリスはそれ以前からの長い関係があるにせよ、クラブの趣旨でウミガメ料理が供されたとは考えにくい。 | |
− | + | クラブ創立以来、宴会を飾ってきたウミガメ料理は、ステーキディナーの台頭と共にビーフステーキに取って代わり、晩年はメンバー同士が顔を合わせて懇談する食事会のような形式に変化した可能性がある。 | |
+ | 明らかなことはメンバーと料理人が共に高齢となりながらも、新規会員や後継者を募ることがなかったことである。 | ||
− | + | すでに当時、ウミガメを世界中から輸入し、一種のウミガメ文化を形成していた英国ではウミガメの激減によって斜陽となっていた。 | |
− | + | 米国ではフロリダ州とニュージャージー州で[[リアル・タートルスープ|ウミガメの缶詰]]が製造されていた時期であり、これらの製品はニューヨークを中心に流通していた。 | |
− | + | もはやクラブは市販品を使ってまでウミガメの宴会を催す価値や必要性は失っていた。 | |
+ | 缶詰で存続したと仮定しても、その限界は缶詰産業が廃業した1971年である。 | ||
== 規則 == | == 規則 == | ||
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崇高な規律はやがて形式的になり、ステータス性は徐々に失われ、1890年代までに会員数が激減し、クラブは苦境に陥った。 | 崇高な規律はやがて形式的になり、ステータス性は徐々に失われ、1890年代までに会員数が激減し、クラブは苦境に陥った。 | ||
その後はクラブ自体やカメ料理を愛する生粋のメンバーで存続した。 | その後はクラブ自体やカメ料理を愛する生粋のメンバーで存続した。 | ||
− | + | クラブの存続に奔走し、1893年にキングスブリッジホテルを購入したウィリアム・スパーブがその一人である。 | |
== 食事 == | == 食事 == |
2023年9月30日 (土) 16:28時点における最新版
タートルスープ(Turtle Soup)は、アメリカ合衆国ニュージャージー州ハドソン郡に位置するホーボーケンで創設された社交クラブ「ホーボーケン・タートル・クラブ」のメンバーらで食されていたカメ料理である。
ホーボーケン・タートル・クラブ
1796年、ニュージャージー州で政治家や文学者などから成る会員制の美食クラブ「ホーボーケン・タートル・クラブ」がジョン・スティーブンス大佐によって創設された。
このクラブは米国最古の社交クラブであり、初期の会員は初代アメリカ大統領ジョージ・ワシントン、第3代アメリカ大統領トーマス・ジェファーソン、アメリカ合衆国建国の父と称されるアレクサンダー・ハミルトン、ジョン・ジェイ、ベンジャミン・フランクリン、他にはアレクサンダー・ハミルトンとの決闘で有名なアーロン・バーなど錚々たるメンバーであった。
モットーは、ラテン語で「Dum Vivimus Vivamus」(和訳:私たちが生きている間は、めいっぱい生きよう)。 英訳の “ AS WE JOURNEY THROUGH LIFE, LET US LIVE BY THE WAY. ”(人生を旅するとき、私たちは道に従って生きよう)という文字がクラブの象徴である巨大なカメの甲羅の看板に刻印された。
同クラブは19世紀後半にホーボーケンからニューヨークに移転し、1930年代後半までに解散した。
歴史
起源
ホーボーケン・タートル・クラブの発起人は、ジョージ・ワシントン率いる大陸軍の元大尉であるジョン・スティーブンス大佐(Col. John Stevens, III:1749年 - 1838年3月6日)である。 彼はニュージャージー州の発明家、弁護士、財務官でもあり、抜け目のない不動産投資、遠洋航行が可能なスクリュー駆動の蒸気船の発明、そして非常に裕福な良家との結婚を通じて富を築いた。 1850年代に建てられたスティーブンス城とよばれた屋敷は1959年に取り壊され、現在はスティーブンス工科大学のキャンパスとなっている。
クラブを創設する発端となったのは、彼を悩ます唯一の問題であった。 スティーブンス自身は数々の功績や富により、不自由な生活に起因する悩みはなかった。 しかし、その彼を悩ませたのは、ヨーロッパから輸入してハドソン川のほとりで放し飼いで飼育していた貴重な鶏たちが次々と姿を消していったことである。 この犯人は密猟者によるものと考え、地元の羊飼いの少年たちを雇い、川岸の調査を行った。 ピクニック気分の少年らは役に立たなかったが、彼らと鶏の生存を確認すべく、ハドソン川へ下りたとき、そこで思いがけぬ光景を目の当たりにしたという。
この出来事はクラブの歴史の一部としてニューヨーク・タイムスに掲載された。
“ コケで完全に覆われた丸い甲羅の巨大なカメが川から這い出てきて、無防備な鶏の足を悪逆非道につかみ、川底の隠れ家へと引きずり込んだ。 ”
スティーブンスは、密漁犯が明らかになったことで「卑劣な冷血爬虫類」と称し、カメに宣戦布告したとされる。 “ 宣戦布告 ” という物騒で穏やかでない表現は誇張されたものであり、これは彼が軍人であったこと、人物像が風変わりでマッド・サイエンティストとされていることが影響しているが、実際には凡人では到底発明できないアイディアの持ち主であったことを含めなければならない。 これは無邪気な少年心にも似た “ カメ退治 ” という表現が相応しい。 彼はマンハッタンの裕福な友人グループを集めてハドソン川でカメ退治にのりだし、それぞれで自分の捕まえたカメの喉を切ったという。 これらのカメを料理した宴は数日間にわたって続けられた。 そして、この宴は瞬く間にクラブとなったのである。
その後、年月と共にクラブへの入会は最も切望されるステータス性の高い会員権の一つとなっていった。
活動と出来事
1804年
クラブ創設から8年後の7月11日未明、メンバーのアレクサンダー・ハミルトンとアーロン・バーの二人はニュージャージー州ハドソン郡ウィーホーケンのハドソン川沿いで決闘を行った。 初代財務長官のアレクサンダー・ハミルトンと現職米国副大統領のアーロン・バーは長年にわたって公の場で対立があり、決闘はその確執と私怨の頂点であった。 ハミルトンは銃弾による致命傷を負い、翌日の7月12日に死亡した。
この決闘は米国史上で最も有名であり、決闘は禁止・違法とされていた中で米国政府の重責を担う者どうしで公然と行われたため、国民を震撼させ、政治的にも多大な影響を及ぼした。
二人の銃は1930年にチェース・マンハッタン銀行(現在はJPモルガン・チェース傘下)へ渡り、現在はニューヨークのパーク・アベニュー270番地にある同銀行本部に展示されている。
1864年
“ 1796年まで遡る、この素晴らしく陽気で古い組織は、昨日の午後、ストライカーズ・ベイで盛大な時間を過ごした。ホテルの裏手にある木立は、クラブのメンバーとそのゲストのために特別に設けられたものだ。木から木へと伸びるロープが木立全体を囲み、あらゆる侵入者を防いだ。入口にはクラブのモットーを記した横断幕が掲げられていた。
「人生を旅するとき、私たちは道に従って生きよう」。敷地の奥には厨房があり、巨大な釜が2つ、スープ作りに最も熟練した者が望む便利なものがすべて揃っている。敷地の中央には長いテーブルが置かれ、約150人ほどが座れる席があった。厨房とこれらのテーブルの間にはパンチテーブルがあり、その下にはパンチの入った大きな桶が置かれている。その周りには喉を渇した人々が集まり「ゴングの音」を待っていた。
クラブの立派な会長であるジェームス・L・ミラー氏が出席し、最高指揮権を執った。彼はクラブのメンバーから贈られた美しいピンバッジを職章として身につけ、大きな注目を集めた。4時少し前、彼は最初の命令を発した。「エアー」。シュラガーはすぐにパンチテーブルの後ろに陣取り、大きな柄杓で武装した助手たちがテーブルの上のパンチボウルに、その下の桶から最高に美味しいパンチを注ぎ、一方彼は小さな柄杓で、領主のような気楽さと威厳をもってパンチをグラスに注ぎ、彼の周りにいる熱心な群衆にグラスを渡した。このテーブルで十分なサービスが行われた後、第2の命令が発せられ、全員がテーブル席に着き、すぐに最高級の素晴らしいアオウミガメのスープが提供された。
その消え方は驚くべきものだった。痩せて浅黒い体型の男たちは、ファルスタにふさわしい食べ方をし、太っていて陽気で立派な大食漢の正当な代表者たちは、昔を彷彿とさせるような食べ方をした。そして大統領は、彼自身が太っていてお人好しであるのと同様に、機知に富んだ鋭いスピーチで、有名な「野菜のブーケ」を250ポンドの紳士に贈呈した。その他のスピーチや乾杯の音頭が取られ、夕暮れ時に一行は解散し、午後を楽しく過ごしたことに満足し、帰途についた。 ”
1878年
クラブのメンバーたちは恒例のカメの宴会をニューヨーク市マンハッタンにあるタマニー・ホール(民主党およびニューヨーク市政の主要な政治団体の機関施設)へ移すことを投票によって決定した。 入口にはクラブ名が刻印された巨大なカメの甲羅がバルコニーから吊るされた。
タイムズ紙は、クラブを「ウォール街と財務省の間に存在する最も重々しい堅実な男たちの集まりのひとつ」と評した。
1890年
クラブは恒久的な常設施設を築くための計画を立て、ニューヨーク・ラーチモントのマナーパークに隣接するシェパーズ・ポイントと呼ばれる4エーカー(約16187.4平方メートル)の土地を購入した。 しかし、1年も経たないうちにクラブは住宅ローン債券の債務不履行に陥り、手放さざる負えなくなった。 物件は競売にかけられ、投資家であるウォルター・B・マニーが51,000ドルで購入した。
“ ホーボーケン・タートル・クラブは昨日、ラーチモントの宿舎で招待レガッタを行うという実験を試みた。天候に恵まれず、実験は失敗に終わった。 ”
1892年
クラブ名をニューヨーク・タートル・クラブ、またはマンハッタン・タートル・クラブへ改称したと一部でいわれているが、その後の移転先で撮影された写真や新聞ではクラブ名は一切変わっていないことが確認できる。 よって改名はしておらず、略名と思われる。
1893年
同年6月、クラブの古株で退役軍人であったウィリアム・スパーブはクラブ存続のために、かつてハイアッツ・タバーン(アメリカ独立革命時代から続く重要な酒場)となっていたニューヨーク市ブロンクス地区にあるキングスブリッジホテルを購入した。
ホテル裏手のスパイテン・ダイヴィル川に面した敷地には、宴会を催すための会場となる屋根と柱で出来た長い建屋があり、クラブ名が記されている。 この建屋の様式はクラブの伝統的なスタイルである。
1895年
“ ホーボーケン・タートル・クラブの会員約200人が、昨日キングスブリッジホテルで行われた今シーズン4回目にして最後の朝食と夕食会に参加した。
これ以上素晴らしい日はないだろう。
食事はスパイテン・ダイヴィル川のほとりの屋根の下で行われた。
カメのスープはその日の名物料理だった。
しかし、ローストチキン、グリーンコーン、スイカは決して美味しいものではなかった。
夕食後、全員がスピーチをした。
ホーボーケン・タートル・クラブは、来年でちょうど100年になる。
ヨンカーズの紳士たちも何人か出席していた。 ”
1896年
クラブ創立100周年記念の演説で、当時の会長ウィリアム・ズルツァー(ニューヨーク市長)は、ジョージ・ワシントン、トーマス・ジェファーソン、ベンジャミン・フランクリン、アーロン・バー、ヘンリー・クレイなどがクラブのメンバーであったと述べた。
1903年
同年10月27日、キングスブリッジ地域を襲った大火災により、多くの店や建物が焼失した。 この大火でクラブの拠点であるキングスブリッジホテルも焼失したとされるが、それ以降もホテルはそのままの姿で撮影されているため、被災を免れた可能性が高い。 ただ、同地域が被災で一時的に荒廃したのは事実であり、クラブの運営に大きな支障をきたし、通常の活動が困難になったのは違いない。
1909年にホテル裏の川沿いでカニ獲りをする親子を撮影した写真にはクラブ特有の長い建屋らしきものが写っている。 陸橋を鉄道が走り、風景は変わっているが建屋の場所は変わっていない。 町が復興してから再び通常通りクラブの拠点として使われたのか、取り壊されることなく放置されたのか、手が加えられて別の目的で使われたのかは不明である。
1938年
同年までにクラブは、ニューヨーク市マンハッタンのターミナルホテルで会合を開くようになっていた。 同ホテルは、1860年にマンハッタンのホーボーケン・フェリーターミナルの真向かいの交差点に建設された地下1階・地上4階建てのホテルである。 オーナーのジョン・ホリングは禁酒法が可決されたことに嫌気がさし、ホテルを売却してこの地を離れた。 以後、1890年代までに所有権はホリングからハーマン・ヴァン・ツイスターンに移り、彼は1階のジョン・ホリングズ・パブ、地下のホリングズ・ビーフステーキ・ケラーを所有していた。 ただし、この物件は以前のキングスブリッジホテルのようにクラブが所有しているものではない。
クラブの会合の場所となっていたのは、地下1階のホリングズ・ビーフステーキ・ケラーである。 店名はホテルの元オーナーであるジョン・ホリング氏にちなむ。 入口の看板には “ WHEN YOU ENTER THIS KELLER YOU FIND A GOOD FELLER. ” (この地下室に入れば、いいやつと出会える)と記されていた。 店は125人が収容可能で片隅にはピアノとドイツのバンドの演奏台があり、天井が低く、床はセメントで固められ、おがくずが散乱している空間であった。
ビーフステーキは、1800年代後半からニューヨークの伝統となり、ステーキディナーは当時、ボウリングや釣りなどの趣味クラブ、ロッジ、労働組合、市民団体、政治団体の活動の場として重要な役割を担っていた。 ステーキディナーは単に “ ビーフステーキ ” とも呼ばれ、伝統的なスタイルは、イーストサイド・スクールとウエストサイド・スクールと呼ばれる2つの流派があり、前菜の有無や提供内容が多少異なる。
当時はビールの箱や樽がテーブルや椅子として使われていた。 また、ビーフステーキは、食器なしで直に手で食べることが厳格な作法、王道とされていた。 指が脂でベトついてきたら、ジョッキのビールで指を軽く洗い、エプロンのスカート部分で拭くのが流儀である。 顔に飛んだ脂や口の周りについた脂もエプロンのスカートで拭き、ナプキン(用意されない)を使うような軟弱なことは御法度である。 このスタイルは両派とも差異はなく、この粗野とも思えるディナーは紳士な大人の男たち限定の粋な嗜みであった。
イーストサイド派の本拠地は食肉市場のヴェルトハイマー&サンズ、ウエストサイド派の紳士たちの本拠地はターミナルホテルとなっていた。
そのターミナルホテルで最も頻繁にビーフステーキを食べに訪れるグループの一つが、ホーボーケン・タートル・クラブであった。 当時は、ジャージーシティの精肉店、ビール醸造業者、酒場経営者、港湾労働者の元締め、実業家だけの排他的な団体でメンバーのほとんどが高齢者だったという。
また、当時のターミナルホテルのシェフであったボブ・エリスは、1929年にクラブからアオウミガメとダイヤモンドが描かれたバッジが贈られ、「ブラザー・タートル」という称号を授かり、名誉会員となった。 この時期すでに同ホテルで会合が開かれていたと考えられる。 彼は1879年以来、クラブのために従事し、クラブ公式のシェフとなっていたが、すでに90歳に近づいていた。
ボブ・エリス
年老いた黒人であるボブ・エリスはターミナルホテルのシェフであり、ステーキ職人である。 その他、ホーボーケン・タートル・クラブ、チェルシーのボウリングクラブである IDK (I Don't Know) などの公式シェフも務めていた。 かつてはウミガメ料理とクラムベイクの調理で定評の高いシェフでもあり、メニューの監修を依頼され、西はシカゴまで出張したこともあった。 また、料理の世界に携わる以前、東洋に向かう貨物船で働いていたこともあり、流暢な日本語を話す人物としても知られている。
彼は、ステーキをヒッコリーの熾火で焼くことが昔ながらの正真正銘のステーキであることと、指で食べるのが嫌いな男はビーフステーキとは縁がないと語っている。 彼はクラブの拠点となっていたキングスブリッジホテルのあるブロンクス地区に住んでおり、ターミナルホテルのオーナーであるハーマンは、ステーキディナーの予約が入るたびにエリスに電話をかけ、日付を伝えて出張で調理してもらったという。
ボブ・エリスがホーボーケン・タートル・クラブの料理に携わったのは、クラブのウミガメスープの調理担当であったジョン・ターベルが極秘レシピを明らかにした翌年の1878年である。 ターミナルホテルのステーキについて “ 私はもう90歳に近いのだから、何が古典的であるかを知っているはずだ。” と語っているように、彼のステーキはウエストサイド・スクールであると同時にオールド・スクールでもあった。 高齢でありながら現役であった彼は下積み時代からの叩き上げの料理人であり、いわば古き時代を知る生き証人である。 彼のステーキはヒッコリー(クルミ科ペカン属の木の総称)の薪で焼くのが特徴で “ ステーキを食べると広葉樹の風味と香りが口の中に広がるんだ。” と語っている。 1886年のイラスト新聞『ホーボーケン・タートル・クラブとの一日』にはウミガメのステーキを焼く黒人が描かれている。 この人物がエリスかは定かでないが、クラブの定番料理であったタートルステーキの調理にもヒッコリーが使われていたかもしれない。
解散
1930年末までにホーボーケン・タートル・クラブは解散したと伝えられている。 明確な時期や理由については明らかになっていない。 ターミナルホテルはステーキディナーがメインであったため、クラブとシェフのボブ・エリスはそれ以前からの長い関係があるにせよ、クラブの趣旨でウミガメ料理が供されたとは考えにくい。 クラブ創立以来、宴会を飾ってきたウミガメ料理は、ステーキディナーの台頭と共にビーフステーキに取って代わり、晩年はメンバー同士が顔を合わせて懇談する食事会のような形式に変化した可能性がある。 明らかなことはメンバーと料理人が共に高齢となりながらも、新規会員や後継者を募ることがなかったことである。
すでに当時、ウミガメを世界中から輸入し、一種のウミガメ文化を形成していた英国ではウミガメの激減によって斜陽となっていた。 米国ではフロリダ州とニュージャージー州でウミガメの缶詰が製造されていた時期であり、これらの製品はニューヨークを中心に流通していた。 もはやクラブは市販品を使ってまでウミガメの宴会を催す価値や必要性は失っていた。 缶詰で存続したと仮定しても、その限界は缶詰産業が廃業した1971年である。
規則
クラブの規則によれば、すべてのメンバーは単に食事をするだけではなく、食事の準備に参加・協力する義務があった。 その準備に参加しない限り、カメ料理を口にすることは出来ない。 これは初期のメンバーであったジョン・ジェイ、アレクサンダー・ハミルトン、アーロン・バーによって制定されたといわれている。 この規則に従って食事の準備には、米国大統領や建国の父も平等に参加していたはずである。
当初、この規則はクラブのステータス性や団結性、カメ料理という貴重性、食前の礼儀や精神を高める上でも重要なものであったと考えられる。 しかし、それ以後のメンバーたちは入会する以前、もしくは入会後に世間的に著名な地位を持つような人々も多かったことから、個人的に美酒や美食に興じることも可能であったため、入会当時の初心を忘れ、クラブの会食に参加するのも次第に煩わしくなっていった。 崇高な規律はやがて形式的になり、ステータス性は徐々に失われ、1890年代までに会員数が激減し、クラブは苦境に陥った。 その後はクラブ自体やカメ料理を愛する生粋のメンバーで存続した。 クラブの存続に奔走し、1893年にキングスブリッジホテルを購入したウィリアム・スパーブがその一人である。
食事
朝食
午前8時、カクテルに始まり、ウナギの煮込み、ウナギのフライ、オキスズキの焼き魚やフライ、ポーターハウスステーキ、カメのステーキなどが供された。
キングスブリッジ・ホテルのバーテンダーは、メンバーたちは朝食前にカクテルを10種、もしくは10杯飲むことは珍しくなかったが、退役軍人のメンバーはカクテルをピッチャーで飲むため、その量を測定するのは難しいと語った。
夕食
午後4時、パンチ(大鉢で供されるカクテルの一種)に始まり、ゆで卵、ブランデー、そして中心はクラブの名物料理であるカメのスープだった。
カメの味は一般的に知られるところではなかった。 クラブのメンバーであり、北極探検家で知られるアイザック・イズラエル・ヘイズは、その味をアザラシのレバーやセイウチのベーコンのフライに喩えている。
流儀と哲学
“ カメのスープをいただくには、まず、ゆで卵を皿の底で細かく刻む。
次に、卵にレモン半分の果汁を絞り入れ、瓶に入った芳醇なオタール・ブランデーをティースプーンへ一杯注ぐ。
これで同時に飲み物が提供されます。
卵は皿を整えるため、飲み物は胃を整えるためです。
それから皿にスープを満たし、卵が底から表面に浮かび上がってくる間に、あなたはすべての世俗的な考えを捨て、すべての敵を許し、すべての債権を忘れて、ティースプーン一杯のスープを口に入れる。
それからスプーンを取り去り、目を閉じると、あなたの魂は、官能的な思考の翼に乗って、蓮華の国へと、その外へと通り過ぎていく。
しばらくの間、あなたはあまりにも静かで、あまりにも完璧で、あまりにもすべてを吸い込むような夢の中へ迷い込み、のんびりと、そして悲しげに、それが終わらないことを願う。
しかし、スープを飲み込んで目を開けると、自然の景色が変わっていないことに気づく。
そして、あなたの知性が再び力を取り戻したとき、カメは白鳥と同様に、その死において唯一の完璧な交響曲を奏でるのだと結論付けるのです。 ”
秘密のレシピ
19世紀末、ジョン・ターベルという人物がカメのスープの調理を担当した。 彼は宴会の2日前にカメと共に調理場に入り、丸2日かけて作られたとされる。 この長時間の調理作業はターベルだけでなく、彼のレシピの下で役割分担をし、各担当に従事した協力者によって行われた。 彼のウミガメスープは絶賛され、フランスのラファイエット侯爵が訪米した際にも依頼するほどであった。
1878年、ターベルは記者に秘密を明かし、以下を語った。
“ これは最高のカメのスープだが、カメはあまり入っていないんだ。もし1,500匹のカメで6匹のカメよりも美味しいスープができるなら1,500匹を使うだろう。しかし、そうはならない。とても濃厚で誰もカップ一杯も食べられないだろう。 ”
彼のレシピは、カメ肉の他、ジャガイモ、カブ、キャベツ、ラディッシュ、エンドウ豆、ビート、トマト、キュウリ、カリフラワーといった多くの野菜で構成されていた。
沿革
- 1796年:ニュージャージー州ハドソン郡ホーボーケンでジョン・スティーブンスにより設立。
- 1804年:7月11日、同クラブ会員のアレクサンダー・ハミルトンとアーロン・バーがニュージャージー州ウィーホーケンで決闘を行い、ハミルトンが銃弾により翌日死去。
- 1878年:クラブの会合はニューヨークのタマニー・ホールで主催するようになった。
- 1890年:クラブの常設施設を築くため、ニューヨーク・ラーチモントの土地を購入。
- 1893年:6月、クラブの本拠地を移すため、ニューヨークのキングスブリッジ・ホテルを購入。
- 1896年:クラブ創立100周年記念の演説で当時の会長ウィリアム・ズルツァーは過去の錚々たる会員を明かした。
- 1903年:10月27日、キングスブリッジ地域で大火災が起きた。
- 1929年:クラブからボブ・エリスへバッチが送られる。
- 1938年:クラブの会合はマンハッタンのターミナル・ホテルで主催するようになった。まもなくしてクラブは消滅・解散した。