見世物の種(食道楽)
見世物の種(みせもののたね)は、明治36年(1903年)に出版された村井弦斎の小説『食道楽・冬の巻』で赤茄子が登場する項である。
註譯
○心臓は犢の物を上等とす。
第二百九十 見世物の種
臓物料理も尽くる事なし、お登和嬢倦める色なく「その次はハート即ち心臓のお料理で心臓には孔が明いております。先ずパンを四半斤位皮の固い処を切捨てて真中の柔い処ばかり水に漬けて絞てそれへ大きな玉葱の細かく切ったもの二つ振とパセリの細かく刻んだもの大匙一杯と玉子の黄身二つと塩胡椒とをよく混ぜ合せて今の孔へ詰めて塩胡椒を振かけてバターを載せてテンパン皿へ入れます。その周囲へ人参や玉葱の小さく切ったものを置いてテンピへ入れて四十分間強い火でロース焼にします。何のロースでもこういう風にしますと肉の味と野菜の味とバターの溶けたのが一緒になって下へ溜まりますから幾度も幾度も引出して大匙でその汁を肉の上へかけながら焼きます。それが出来上った時肉を出してその汁の中へバターを入れてメリケン粉を真黒くなるまでいためてスープとセリー酒を少し注して塩胡椒で味をつけてよく煮て丁寧にすればその汁を水嚢で漉して肉へかけて出します」妻君「その次は」お登和嬢「これでお腹の中の物はお終いです。今度は下へ行って尾のお料理ですが先日小山さんにお教え申しましたから御存知でしょう。それから脛すねはスープになりマルボンといって髄も取れますし、足の先のお料理も結構です。足の先きは生のまま四時間湯煮て骨と肉とを別にしてその肉を今のお料理のようにトマトソースか白ソースで煮込みます」妻君「そうすると足の先から頭の先まで捨てる処はありませんね」お登和嬢「少しも捨てる処はありません。西洋人は肉料理よりも臓物料理を好む人がある位で食べ慣れると美味いものです。しかし我邦ではまだ臓物の食べ方を知らない人が多いため美味い臓物も腸と一緒に肥料屋に売られたり、あるいは胃袋なんぞは折々香具師の材料となって縁日の見世物になるそうです。大きな胃袋へ水を一杯詰めて裏返して置くとちょうど頭のような処が先にあり手足のような処もあり何とも訳の分らない化物のような形になるそうです。それを見世物師が何処の海で取れました何という珍らしい動物でござると名をつけて一銭二銭の見料を取って見せるのです。よく縁日の見世物を気を注けて御覧なさい。黒い牛のような化物の看板が出ていますよ。あれが牛の胃袋です。西洋ではお料理にして食べられるものが我邦では見世物に出るので随分おかしいではございませんか。それから見世物に蛇の骨だといってよく出ているのがあれも牛の軟骨を乾し固めたのだそうです。そんなものを見るために一銭二銭の金子を払って嬉しがっているのは多く頑是ない子供ですが、まことに浅ましい事ではございませんか。文明流の家庭教育は子供に博物学上の智識を与えて牛はこういうものである。胎生動物と卵生動物の区別はこうであると事物の真相を教えて遣らなければならんのに牛の胃袋や骨を以て子供を欺いて金銭を貪るなんぞとは実に乱暴とも野蛮とも申しようがありません。ああいう処を改良して行くのが教育家の仕事でありましょうけれども今までは家庭教育にさえ重きを置かなかった位ですからそんな処まで手が届きません。大原さんが西洋からお帰りになって家庭教育の必要をお唱えになったらばその時こそ始めて子供の幸福も出て来ましょう」と物に感じてはとかく心を大原の身辺に馳する。
参考文献
- 『食道楽・冬の巻』:明治三十六年(第二百九十)