兎のシチュー(食道楽)
兎のシチュー(ううさぎのしちゅー)は、明治36年(1903年)に出版された村井弦斎の小説『食道楽・冬の巻』で赤茄子が登場する項である。
註譯
○このソースの代りにジャムを肉に添えて食するもよし。
第三百四十四 兎のシチュー
衛生法の原則に適ざれば文明の料理となし難し。
猟天狗先生も頻に感心し「我々は今まで鳥獣を撃つ事ばかり知って食べる事を知らなかったのです。鳥や獣へ菓物のソースをかける事なぞは夢にも思いませんでした。そのソースの拵え方かたは面倒ですか」中川「イイエ決して面倒な事はありません。林檎ならば水と砂糖で煮てそれを汁ともに裏漉にして掛けます。クラムベルは山桃の様な実ですが生ならばやはり煮てセリー酒を少し加えますし、鑵詰のゼリーならばそのまま裏漉しにしてもいいのです。カレンズはゼリーになったのが食品屋にありますから一鑵のゼリーへセリー酒五勺を混ぜて裏漉しにして少し塩を加えてかけます。これはロースばかりでありません、グレーでもカツレツでも何でもそういう肉の料理へかけると味も出ますし消化を助けます」猟天狗「鳥や獣を煮る料理は色々ありますか」中川「ハイ、種類によって煮る事もあります。煮るといってもシチューにするのとボイルドにするのと料理法が違いまして、ボイルドは極く無造作ですけれども雁や鴨のようなものは用いません。同じ兎でも山兎はシチューが良し地兎はボイルドが良いとしたものです。先ずボイルドにするものは鹿、猪、雉、山鳥、鶉、猿、地兎位なものでその煮方は手軽にすると鶏のボイルドと同じように水へ塩を加えて玉葱人参を入れて鳥や獣の好い加減に切った肉を入れて一時間以上煮ます。それが煮えたら別に牛か鳥のスープで御飯を炊けば結構ですが普通の御飯へ載せても構いません。その上から白ソースとか赤茄子ソースとか適宜のソースをかけて食べます。シチューの方は小鳥類でも水禽でも獣でも何の肉でも適当しないものはありません。鳩でも鶉でも鴫でも鴨でも猪、鹿、熊、猿に至るまでシチューにすると大層美味しくなります。シチューの拵え方は手軽にすると何の肉でも先ずバターでジリジリといためておいて一旦それを出してフライ鍋の中へ再びバターを加えてメリケン粉を黒くなるほどよくいためて牛か鳥のスープを注して塩胡椒を加えればブラウンソースが出来ます。それを深い鍋へ移して前の肉を入れて弱い火で一時間の余も煮込みます。しかしそれは極く略式です。西洋料理の一名物といわれる兎のシチューなどは先ず兎の皮を丁寧に剥いて兎の毛を肉へ着けないようにします。肉へ毛が着くと臭くなっていけません。それから兎の肉を一寸四角位に切って一合の赤葡萄酒へ西洋酢を五勺加えて玉葱、人参、セロリー、セージ、タイムなぞを入れてその中へ兎の肉を一昼夜漬けておきます。翌日それを出して水気を切ってバターで黒く焦げるほどにいためます。よくいためたら肉を出して前の通りにフライ鍋へバターを足してメリケン粉を黒くなるほどいためてスープ一合と赤葡萄酒一合を注して塩胡椒を加えて別に鍋へ移します。その中へ先ず兎の肉を入れて別にバターで焦げるほどフライした玉葱を五つ六つと皮を剥いてフライした小蕪を五つ六つ加えて一時間余も弱火で煮ます。小蕪は兎に合い物でこういう風に料理したのが兎のシチューですけれどもまだ上等とは申されません。西洋人が珍重するのは血のソースで煮た兎といいまして兎を切る時大切に心臓の近所の血を絞り取ります。日数を経たものは凝結っていますが一羽の兎から五勺位出ます。それを今の汁へ混ぜて煮込んだのが兎料理の第一等としてあります。その次は兎のボイルドで水一升に玉胡椒十粒、ルリーの葉二枚、玉葱八つ、西洋人参八つ入れて塩胡椒で味をつけて兎一羽の肉を入れて一時間余弱火で煮ます。よく煮えたらそれを出して別にバター大匙一杯でメリケン粉一杯をいためて牛乳一合を注して塩胡椒と西洋酢を大匙一杯にケッバスといって酸い実を少し加えたソースをかけます。一緒に煮た人参と玉葱は附合せにします。こうすると兎の匂いが致しません。総べてシチューやボイル料理は今日煮て翌日あくるひ食べる方が味も良くなります」猟天狗「随分大層な御馳走ですな」
参考文献
- 『食道楽・冬の巻』:明治三十六年(第三百四十四・兎のシチュー)