仮名垣 魯文
仮名垣 魯文(かながき ろぶん:1829年2月9日 - 1894年10月8日)本名:野崎 文蔵(のざき ぶんぞう)は、江戸末期から明治初頭にかけての戯作者、新聞記者。
江戸の京橋生まれ。字は能連、幼名は兼吉、また庫七、後に文蔵と改めた。
別号に鈍亭、金屯道人、猫々道人(みょうみょうどうじん)、和堂開珍、英魯文、戯作書太郎、野狐庵。
俳号は香雨亭応一、狂名は斜月窗諸兄。
戯作文学者
京橋の鑓屋町に生まれる。魚屋を営む父野崎佐吉は、星窓梶葉という号を持ち俳句や狂歌を好み、文蔵も戯文や小説を好んで育った。大きな商家の丁稚となったが、人相見に小説家になれば出世すると言われ、18の年に花笠魯介文京の弟子となる。1849年(嘉永2年)19歳の時に名弘めの摺物「名聞面赤本(なをきいておもてあかほん)」を書き、それに先輩の文人や芝居作家に賛助の俳句や短歌を書いてもらったが、最後に当時82歳の滝沢馬琴に頼んで「味噌揚げて作り上手になりたくば世によく熟れし甘口ぞよし」という狂歌を贈られた。自作の執筆の他に、先輩の仕事の手伝い様々などをこなし、生活のために古道具屋や、当時の作家ではよくある売薬業も営み、牛肝煉薬黒牡丹(うしのきもねりやくくろぼたん)など何種類かの丸薬の販売を行った。
1855年に安政の大地震で生き埋めになりかけたが、三河屋鉄五郎という版元から地震にかかわる「安政見聞誌」の執筆を十両で持ちかけられ、渓斎英泉の弟子の英寿が見て回った様子を魯文が書いて、原稿料を二人で折半した。当時の後援者には、榎本総助、高野酔桜軒、豪商の勝田幾久、細木香以(津藤香以山人)などがいた。同じ香以山人の取り巻きである、条野採菊(山々亭有人)、河竹新七(黙阿弥)、瀬川如皐、河鍋暁斎、落合芳幾、其角堂永幾らとも親しくした。巻物の草双紙や滑稽本数十を著し、安政年間には名を為し、1860年(万延元年)十返舎一九流の作品『同行笠名所枝 滑稽富士詣』『荏土久里戯』は出世作となった。
筆名は初め「英(はなぶさ)」または「鈍亭」としていたが、1873年(明治6年)に仮名垣魯文とした。師の魯と文の字を取って「魯文」、「仮名垣」は、柳亭種彦の『正本製』三編、『当年積雪白標紙』の登場人物、赤本入道仮名垣による(歌川豊国による入道の挿絵と魯文の顔とが似ていたため)。山々亭有人たちと三題噺のグループ「粋狂連」を結成し、作品でも落語から取ってきた笑いを使っている。
魯文の門下として、伊東橋塘・花笠文京・雑賀柳香・若菜胡蝶園・野崎左文・斎藤緑雨などがあげられる。