お豆腐(食道楽)
お豆腐(おとうふ)は、明治36年(1903年)に出版された村井弦斎の小説『食道楽・春の巻』で赤茄子が登場する項である。
註譯
○湯豆腐を作るには鍋へ湯を沸かし、葛を少し溶き込み、湯玉の立つほど沸き立つ中へ豆腐を入れ、暫く煮ると豆腐が動き始めて浮き上らんとする時掬い揚げて皿へ盛り出すべし。 その皿には湯を少しく入れておく。汁は鰹節の煎汁と醤油を煮立て大根卸しを添ゆ。
○バラー肉をシチュウにするは沸立ちたる湯へ肉を入れ、ホンの少しの塩を加え二時間ほど煮て先ずジャガ芋と大根と少々の湯煮た人参なぞを加え、三十分ほど煮て球葱かあるいは白葱を加え塩と胡椒とバターにて味をつけ、また三十分ほど煮て葡萄酒を少し加え、米利堅粉を溶き込みてその汁を濃くす。 一晩置いて翌日用ゆるには用ゆる時米利堅粉を溶き込むべし。 葡萄酒を加うる時赤茄子のソースを交ぜれば味一層よし。
○上等製のシチュウは肉を一旦油にて炒りつけドビグラスといえる肉汁にて長く煮るなり。
○昆布だしは汁の味を佳くするのみならず、また植物質の消化を助くる功あり。
第二十三 お豆腐
大原はお登和の命に応じて章魚を叩き終りしが今の小言が縁になりて自分からも口を利き「さてお登和さん、今度は何を致しましょう」お登和「そうですねー。奥さん、まだ何かお拵えになりますか」妻君「何でも沢山拵えて戴きましょう。お昼の副食物に干瓢を煮ましょうか、しかし干瓢はなかなか急に柔くなりませんね」お登和「イイエ塩で揉むと直きに柔く煮えます。章魚や鮑は塩で揉むと堅くなりますが干瓢は反対で大層柔くなります。大原さん、干瓢をよく塩で揉んでそれから水で洗って下さい」大原「ハイハイ」と大悦び。妻君は下女に命じて近所の豆腐屋へ走らしめ「お登和さん、お昼の副食物にお汁物がありませんから餡かけ豆腐を拵えましょう。餡かけ豆腐にも何か御伝授がありますか」お登和「別に伝授もありませんがお豆腐を湯煮る時お湯の中へ上等の葛を少しお入れなさい。長く煮ても決して鬆が立ちません。普通のお豆腐でも絹漉のように柔くなります」妻君「オヤそうですか、私どもでは湯豆腐をします時曹達か塩を入れます」お登和「曹達でも柔になりますがお豆腐が崩れて味も悪うございます。湯豆腐にするのでも何にするのでも葛を入れるのが一番です」妻君「その塩梅では餡の方にも好い事がありましょうね」お登和「餡は最初昆布と鰹節で煎汁をお拵えなさい。それへお砂糖とお醤油で味をつけて葛を引きます。お役味には山葵と芥子とをよく混ぜて出すのです」妻君「それは美味しゅうございましょう。全体何処のお料理です」お登和「これは西京風の餡かけ豆腐です」と語る側にて大原が「お登和さん、塩で揉んだばかりで干瓢がモー柔くなりました」お登和「それでは水で洗ってお鍋へ入れて煮て下さい」と自分こそ台所の主人役、その中に下女が豆腐を買い来りければ妻君は餡かけ豆腐を拵える。この時勝手口より顔を出す牛肉屋の御用聞き「今日は何を持って参りましょう」妻君「やっぱり平日のように上等のロースを一斤持って来ておくれ」男「ヘイヘイ」と帰り去る。妻君此方を向き「お登和さん、宅では牛肉が好きですから毎日牛を配達させますよ。牛肉をシチュウにしたのが一番好きでね」お登和「オヤそれではロースをシチュウになさいますか」妻君「ハイ」お登和「西洋料理屋のシチュウのようにお美味く出来ますまい」妻君「出来ません。ナゼでしょう」お登和「シチュウにする肉はバラーといって肋の処の肉でなければ美味しくなりません。バラーは直段の廉い処で内ロースの半分価位でしょう。ロース肉はシチュウにすると筋張ってかえっていけません。ロースでシチュウを拵えるのは高い直段の肉をお買いなすってわざわざ不味くなさるのです」妻君「そうですかね、私は何にするのでも上等の肉がいいと思って牛肉はロースばかり買いました。惜しい事をしましたね」お登和「ロースばかりお使いでは直段が高くって御損です。シチュウには牛の舌をお買いになってタンシチュウをお拵えなすっても沢山出来てお徳です。何の料理でもその材料が適当しなければ好いものがかえって悪くなります。お魚のスープを拵えるに少しでも身を入れると味が悪くなります。骨ばかりにして綺麗に身を除らなければ美味しいスープが出来ません。オヤ何だか焦臭い、大原さん干瓢が焦付きますよ」大原「ホイ失敗しまった」
参考文献
- 『食道楽・春の巻』:明治三十六年(第二十三・お豆腐)