トマトとピーナッツバタのサンドイッチ
トマトとピーナッツバタのサンドイッチ(とまととぴーなっつばたーのさんどいっち)は、小説家の林 芙美子(はやし ふみこ:1903年・明治36年12月31日 - 1951年・昭和26年6月28日)の作中に登場するサンドイッチである。
林 芙美子
山口県生まれ。 尾道市立高等女学校卒。 複雑な生い立ち、様々な職業を経験した後、『放浪記』がベストセラーとなり、詩集『蒼馬を見たり』や、『風琴と魚の町』『清貧の書』などの自伝的作品で文名を高めた。 その後、『牡蠣』などの客観小説に転じ、戦中は大陸や南方に従軍して短編を書き継いだ。 戦後、新聞小説で成功を収め、短編『晩菊』や長編『浮雲』『めし』(絶筆)などを旺盛に発表。 貧しい現実を描写しながらも、夢や明るさを失わない独特の作風で人気を得たが、心臓麻痺により急逝。
その生涯は、「文壇に登場したころは『貧乏を売り物にする素人小説家』、その次は『たった半年間のパリ滞在を売り物にする成り上がり小説家』、そして、日中戦争から太平洋戦争にかけては『軍国主義を太鼓と笛で囃し立てた政府お抱え小説家』など、いつも批判の的になってきました。 しかし、戦後の六年間はちがいました。 それは、戦さに打ちのめされた、わたしたち普通の日本人の悲しみを、ただひたすらに書きつづけた六年間でした」と語るように波瀾万丈だった。
1951年(昭和26年)、6月27日の夜分、『主婦の友』の連載記事のため料亭を2軒回り、帰宅後に苦しみ、翌28日に払暁心臓麻痺で急逝した。 47歳没。 『ジャーナリズムに殺された』と世間は言った。
なお、急逝の直前、6月24日には、NHKラジオの生放送「若い女性-会ってみたい人の頁」にゲスト出演し、女子大生数人に対し質疑応答をおこなっている。 この中で芙美子本人が「すでに晩年であると思い、むだな球は投げない」とも語っていた。 この放送時の一部が当時の番組広報用として映像保存されており、NHKアーカイブスのサイト「NHK放送史-若い女性」で動画公開されている。 放送音声は録音保存され、直近では2016年1月26日にNHK第1ラジオで放送された。
7月1日、自宅で告別式が執り行われ、近在の市民が大勢参列した。 葬儀委員長は近現代日本文学の頂点に立つ作家の一人として知られる川端康成が務めた。 彼は「故人は文学的生命を保つため、他に対して時にはひどいこともしたのでありますが、しかし、後二、三時間もすれば、故人は灰となってしまいます。 死は一切の罪悪を消滅させますから、どうか故人を許して貰いたいと思います」と弔辞の中で述べたという。
トマトとピーナッツバタのサンドイッチ
徹夜をして頭がモウロウとしている時は、歯を磨いたあと、冷蔵庫から冷したウイスキーを出して、小さいコップに一杯。一日が驚くほど活気を呈して来る。
とくに真夏の朝、食事のいけぬ時に妙である。
夏の朝々は、私は色々と風変りな朝食を愉しむ。
「飯」を食べる場合は、焚たきたての熱いのに、梅干をのせて、冷水をかけて食べるのも好き。
春夏秋冬、焚きたてのキリキリ飯はうまいものです。
飯は寝てる飯より、立ってる飯、つやのある飯、穴ぼこのある飯はきらい。
子供の寝姿のように、ふっくり盛りあがって焚けてる飯を、櫃ひつによそう時は、何とも云えない。
味噌汁は煙草のみのひとにはいいが、私のうちでは、一ヶ月のうち、まず十日位しかつくらない。
あとはたいてい、野菜とパンと紅茶。
味噌汁や御飯を食べるのは、どうしても冬の方が多い。
これからはトマトも出でさかる。
トマトはビクトリアと云う桃色なのをパンにはさむと美味うまい。
トマトをパンに挟む時は、パンの内側にピーナツバタを塗って召し上れ。
美味きこと天上に登る心地。
参考文献
- 『林芙美子全集』:1977年(昭和52年)