テノチティトラン包囲戦

提供: Tomatopedia
2021年8月3日 (火) 06:32時点におけるWebmaster (トーク | 投稿記録)による版
ナビゲーションに移動 検索に移動
『コルテスによるテノチティトランの征服』(17世紀後半)アメリカ議会図書館:ワシントンDC

テノチティトラン包囲戦(Fall of Tenochtitlan)は、アステカ帝国に敗北を喫した「悲しき夜」といわれる敗走から1年以上の歳月の後に、再びアステカの都へ攻め上り、アステカ帝国の首都テノチティトランを包囲し陥落させた出来事で、これは、スペインによるアステカ帝国の征服を決定的に裏付けるものであった。
1521年、スペインのコンキスタドールであるエルナン・コルテスは、現地の派閥を巧みに操り、既存の政治的対立を利用して陥落させた。コルテスには、先住民の同盟者や、通訳兼仲間のラ・マリンチェが協力した。

アステカ帝国と、トラスカルテカ人を中心に構成されたスペイン主導の連合軍との間で数々の戦いが繰り広げられたが、アステカ文明の滅亡に直結するテノチティトランの包囲は、スペインによるアステカ帝国征服の第一段階の終わりを告げるものであった。当時のアステカでは、天然痘の流行による死亡率の高さから、指導者の多くが死亡するという荒廃した状況にあった。天然痘はアジアやヨーロッパで何世紀にもわたって流行していたため、スペイン人は後天的な免疫力を身につけており、この流行では比較的被害が少なかった。

アステカの征服は、スペインによるアメリカ大陸の植民地化にとって重要な段階であった。この征服により、スペインは太平洋への実質的なアクセスを得た。これによりスペイン帝国は、メキシコを中心として ニュー・スペインを設立すると共に、アジア市場への進出という当初の海洋目的をようやく達成することができたのである。