トマト年表
紀元前300年
マヤ文明(メキシコ・グアテマラ・ホンジュラス)
1428年
アステカ(メキシコ中央部で栄えたメソアメリカ文明)
1492年10月
クリストファー・コロンブスが、サンタマリア号で東方のジパングを目指し8月に出航、偶然にも新大陸に漂着する。
1493年
アメリカ大陸を発見したクリストファー・コロンブスがトマトをヨーロッパへもたらした可能性。
1519年
スペインのコンキスタドール(征服者)であるエルナン・コルテスが、キューバ総督ディエゴ・ベラスケスの命令に違反してメキシコに上陸、進撃を開始する。
1521年
エルナン・コルテスがメキシコ高原のテノチティトランを征服、アステカ帝国が滅びる。
1544年
エルナン・コルテスが小さな黄色いトマトトマトを祖国に持ち帰ったとされる。
イタリア(トスカーナ)の医師で植物学者であるピエトロ・アンドレア・マッティオリがトマトを含む文献を出版。
黄金の林檎(Poma aurea)と名付ける。
トマトは食べれるかもしれないが現時点でそれを消費している人の記録はないことを示唆。
1548年10月31日
フィレンツェ共和国(イタリア)の銀行家で公爵であるコジモ・デ・メディチの執事がデ・メディチの個人秘書に「トマト(Pomi d'oro)のバスケットが届いた」と書き、トマトがPomi d'oroとしてイタリアで最初の名前を与えられる。
それまで、Pomi d'oroは科学者が論文でイチジク、メロン、柑橘類を指すものとして使われていた。
1597年
イギリスの床屋で外科,植物学者のジョン・ジェラードが、フランス人とイタリア人がトマトを食べたことを認めながらも、トマトは有毒であると述べた本、The Herball or Generall Hiftorie of Plantesを出版。
1710年
北アメリカ(イギリス領)で栽培されているトマトについて最初の言及。
1745年
第3代アメリカ合衆国大統領であるトーマス・ジェファーソンが、ユダヤ人の友人であるジョン・デセケイラ博士が、1745年にウィリアムズバーグ(バージニア州)に到着した後、バージニアにトマトを紹介したと書く。
1758年
イギリスの料理作家であるハナー・グラスによると、1750年代、トマトはイギリスではスープで食べられていた。
1770年
アメリカで最も初期のトマト料理のレシピがサウスカロライナで出される。
1779年
貴族、バルベリーニ枢機卿の料理人であるアントニオ・ネッビアがパスタとトマトソースを組み合わせた初めてのレシピ本を出版。
1792年
スペインのフィリップ2世の後援、アランフェス(スペイン・マドリード州南部)の植物園の主任庭師が「ソースに良いと言われています」と書く。
しかし、一般的には装飾用の植物とされ料理用としてめったに使われなかった。
フィレンツェの貴族、ジョヴァン・ヴィットリオ・ソデリーニは「彼らは美しさだけだけを求められた」と記している。
1799年 - 1825年頃
アレッポ(シリア北部にある都市)の英国領事であるジョン・バーカーによって北アフリカと中東にトマトが紹介され栽培が導入される。
1820年9月26日
まだトマトには毒があると信じられていた時代、アメリカ(ニュージャージー州セーラム郡)の裁判所前でジョンソン大佐として知られるロバート・ギボン・ジョンソンが「トマトを食べてみせる」と言い、それに2000人もの群衆が集まり、食べる姿を見て悲鳴や失神する女性も出たが最後は歓声で終わった。
1873年5月1日 - 10月31日
一般的には、まだ非常にエキゾチックに映っていたトマトはハンガリー帝国(オーストリア)のウィーン万国博覧会で人の目を引く植物として展示された。
1988年
グッドモーニングアメリカ(ABCで放送されている朝の情報番組)は、ジョンソン大佐がアメリカで最初にトマトを食べたと報道した。