ゆで豚の唐がらしソース
ゆで豚の唐がらしソース(Yude Buta no Togarashi Sauce)は、テレビドラマ脚本家、エッセイスト、小説家の向田 邦子(むこうだ くにこ:1929年・昭和4年11月28日 - 1981年・昭和56年8月22日)の手料理である。 この料理は現代の「冷しゃぶ」に近い。
向田 邦子
1929年(昭和4年)、東京府荏原郡世田ヶ谷町若林(現・東京都世田谷区若林)に生まれる。 父親は高等小学校を卒業したあと第一徴兵保険(東邦生命保険。現、ジブラルタ生命保険)に給仕として入社し、そこから幹部社員にまで登りつめた苦労人。 なお転勤族であったため一歳で宇都宮に転居したのを初めとして、幼少時から高等女学校時代まで日本全国を転々としながら育つ。 香川県の高松市立四番丁小学校卒業、東京都立目黒高等女学校、実践女子専門学校(現・実践女子大学)国語科卒業。
新卒で財政文化社に入社し、社長秘書として勤める。 その後雄鶏社に転職し、「映画ストーリー」編集部に配属され、映画雑誌編集者として過ごす。 そのころ市川三郎の元で脚本を学び、シナリオライターを目指した。 雄鶏社を退社した後は脚本家、エッセイスト、小説家として活躍する。
ホームドラマ作品の脚本家として現在も知名度は高く、『時間ですよ』『寺内貫太郎一家』『阿修羅のごとく』といった人気作品を数多く送り出した。 1970年代には倉本聰・山田太一と並んで「シナリオライター御三家」と呼ばれた。 1980年(昭和55年)7月17日、短篇の連作『思い出トランプ』収録の『花の名前』『かわうそ』『犬小屋』で第83回・直木賞を受賞。
1981年(昭和56年)8月22日、台湾への取材のため搭乗していた台北松山空港発~高雄行きの「遠東航空103便墜落事故」にて突然の死去。享年51。 日本社会に大きな衝撃を与えた。
彼女は精力的に海外旅行をしていたが、台湾への渡航は初めてであった。 また、飛行機嫌いであり、1981年5月に『ヒコーキ』(『霊長類ヒト科動物図鑑』)というエッセイで、「私はいまでも離着陸のときは平静ではいられない」と記し、あまり片付けて出発すると「やっぱりムシが知らせたんだね」などと言われそうで、縁起を担いで汚いままで旅行に出ると述懐していた。 しかしながら、験担ぎも虚しくこの僅か3か月後に飛行機事故で命を落とすこととなった。
料理の趣味と夢
向田邦子は自炊派の料理好きであり、グルメとしても知られ、エッセイの中には料理の話が度々登場する。 彼女は脚本、小説、エッセイで名を馳せていたが、一方で料理・グルメ系のエッセイや料理レシピは本人の作品自体を知らない人たちにも非常に人気が高かった。 当時、彼女のレシピや料理に対する世界観は様々な料理本や雑誌に掲載され、また料理本も出したことで主婦たちの間で家庭料理として取り入れられ、食卓に並ぶほどであった。 「どうしても大根のしっぽが捨てられぬ」と語っているように庶民的で手軽な料理が多くある。 器にこだわりを見せたり、お洒落には敏感でありながら、食べ物に関しては気取ったものが嫌いであり、海外から帰宅して最初に作る料理は「海苔弁」と豪語するほどで、現在でいう「男めし」や「ひとり飯」的な気質を兼ね備えている人でもあった。 最近では向田邦子流「常夜鍋」などが知られるようになり、自炊派の男性からも人気が高い。
料理本『向田邦子の手料理』では以下を語っている。
“ 何かの間違いで、テレビやラジオの脚本を書く仕事をしているが、本当は板前さんになりたかった。 女は、化粧をするし、手が温かい。 料理人には不向きだということも知っている。 私自身、母以外の女の作ったお刺身や、おにぎりは、どうもナマグサくていやだから。 板場に立つなんて大それたことはあきらめて、せめて、小料理屋のおかみになりたい。 ——これは今でも、かなり本気で考えている。”
小料理 ままや
1978年(昭和53年)、執筆活動の傍ら、実妹・和子を誘い、赤坂に惣菜・酒の店「ままや」を開店した。 店には邦子自身が通い、レシピを教えた。 開店のいきさつは、向田邦子のエッセイ集『女の人差し指』に収められた『ままや繁盛記』に詳述されている。 彼女がいよいよ自炊料理にくたびれた頃である。
“ おいしくて安くて小奇麗で、女ひとりでも気兼ねなく入れる和食の店はないだろうか。切実にそう思ったのは、三年前からである。仕事が忙しい上に体をこわしたこともあるが、親のうちを出て十五年、ひとりの食事を作るのに飽きてくたびれたのも本音である。”
その3年後の1981年(昭和56年)8月22日、台湾の「遠東航空103便墜落事故」で邦子が突然の死去。 以後、「ままや」は、姉・邦子の死を乗り越え、妹・和子が切り盛りして営業を続けてきたが、1998年(平成10年)3月31日に幕を下ろした。 開店から20年、邦子の死から17年であった。
“十年、店をつづけたら、姉の意志に応えたことになると勝手に思った。「よくがんばった」と褒めてもらえそうな気がして、どんな事があっても十年はやる、と誰に相談するともなく決めていた。
“ 余裕や余韻をたっぷり残して、きれいさっぱり幕をおろしたい。 私の意地と見栄だったが、誰になんと言われようと、その決心は変えたくなかった。 よくつづけた、よくやった、という自己満足と肩の荷がおりる解放感、時間の自由……数えあげれば、きりがないが、熱い思いが胸のうちでうず巻いていた。 邦子が死んで十七年目。母九十歳、私は六十歳を迎えようとしていた。 平成十年三月末、惣菜・酒の店「ままや」の暖簾をたたんだ。