「ホセ・ケル・イ・マルティネス」の版間の差分
(→トマト) |
(→トマト) |
||
11行目: | 11行目: | ||
== トマト == | == トマト == | ||
− | 1874年、ホセ・ケル・イ・マルティネス(Don Joseph Quer)はスペインの植物群(Flora | + | 1874年、ホセ・ケル・イ・マルティネス(Don Joseph Quer)はスペインの植物群(Flora Española)で「古い時代の書物、とりわけ北国の人々はトマトの効用について納得しておらず、むしろ薬用というよりは毒のある植物として扱うべきだと主張している。」とトマトが誤解されていることを載せ、「スペイン人はトマトを煮込み料理だけでなく、サラダにしたり、少量の塩で生のまま食べたりする」と書いている。 |
さらに「トマトは無害で、貧しい人も金持ちもそのどちらの健康にも少しも害を及ぼすことのない健康食だ」と明言している。 | さらに「トマトは無害で、貧しい人も金持ちもそのどちらの健康にも少しも害を及ぼすことのない健康食だ」と明言している。 | ||
何よりもこの時代のスペインでは貧富の差とは関係なく、トマトが人々の食卓に欠かせない愛すべき野菜として扱われていることが分かる。 | 何よりもこの時代のスペインでは貧富の差とは関係なく、トマトが人々の食卓に欠かせない愛すべき野菜として扱われていることが分かる。 |
2021年7月17日 (土) 01:13時点における版
ホセ・ケル・イ・マルティネス(José Quer y Martínez:1695年1月26日 – 1764年)は、スペインの医師、植物学者でボローニャ研究所学の学者, マトリテンス王立医学アカデミーの学者, マドリード王立植物園の初代教授である。
略歴
ホセ・ケル・イ・マルティネスは、1695年に生まれた故郷のペルピニャンで医学と外科学を学び、特に植物学に興味を持っていました。彼は外科医になり、後に軍隊に入りました。軍医として、スペイン、フランス、イタリア、北アフリカを広く旅し(オラン攻略作戦に参加)、大規模な植物誌を作成し、多くの種子や生きた植物を収集して、マドリードに原始的な植物園を設立した。フェルナンド6世は、1755年にマドリード王立植物園を設立する際に彼をあてにし、フェリペ2世が設立したアランフェスの原始的な庭園をミガスカリエンテスの植物園に移し、そこで彼は初代教授に任命され(フアン・ミヌアルトは2代目教授)、植物学の教育を開始した。
1762年、彼はトゥルヌフォルテの基準による『Flora española o historia de las plantas que se crían en España』(カール・フォン・リンネと対立することになった)の出版を引き受けたが、4巻しか出版できず、彼の死後も未完成のままで、彼の後継者の一人であり、王宮庭園をミガスカリエンテスからマドリードのプラド美術館の隣に移した責任者であるカシミロ・ゴメス・オルテガが仕上げた。また、「Uva ursi or Gayuba」(1763年)と「Cicuta」(1764年)の2つの論文を発表しています。
「Quer」という略語は、植物の記述と科学的分類の権威であるホセ・ケル・イ・マルティネス(José Quer y Martínez)を示すために使われています。
トマト
1874年、ホセ・ケル・イ・マルティネス(Don Joseph Quer)はスペインの植物群(Flora Española)で「古い時代の書物、とりわけ北国の人々はトマトの効用について納得しておらず、むしろ薬用というよりは毒のある植物として扱うべきだと主張している。」とトマトが誤解されていることを載せ、「スペイン人はトマトを煮込み料理だけでなく、サラダにしたり、少量の塩で生のまま食べたりする」と書いている。 さらに「トマトは無害で、貧しい人も金持ちもそのどちらの健康にも少しも害を及ぼすことのない健康食だ」と明言している。 何よりもこの時代のスペインでは貧富の差とは関係なく、トマトが人々の食卓に欠かせない愛すべき野菜として扱われていることが分かる。
著書
1792年から、"Flora española o historia de las plantas que se crían en España"(スペインの植物と栽培の歴史)の執筆を始め、没するまでに4巻を出版した。
この著作は後を継いだカシミーロ・ゴメス・オルテガ(Casimiro Gómez Ortega)によって完成された。その他の著書に"Uva urs" (クマコケモモ/1763)、"cicuta" (ドクゼリ属/1764)がある。