「トマト年表」の版間の差分

提供: Tomatopedia
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<p>フィレンツェ共和国(イタリア)の銀行家で公爵であるコジモ・デ・メディチの執事がデ・メディチの個人秘書に「トマト(Pomi d'oro)のバスケットが届いた」と書き、トマトがPomi d'oroとしてイタリアで最初の名前を与えられる。<br>
 
<p>フィレンツェ共和国(イタリア)の銀行家で公爵であるコジモ・デ・メディチの執事がデ・メディチの個人秘書に「トマト(Pomi d'oro)のバスケットが届いた」と書き、トマトがPomi d'oroとしてイタリアで最初の名前を与えられる。<br>
 
それまで、Pomi d'oroは科学者が論文でイチジク、メロン、柑橘類を指すものとして使われていた。</p>
 
それまで、Pomi d'oroは科学者が論文でイチジク、メロン、柑橘類を指すものとして使われていた。</p>
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==== *1799年から1825年頃 ====
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<p>アレッポ(シリア北部にある都市)の英国領事である[[ジョン・バーカー]]によって北アフリカと中東にトマトが紹介され栽培が導入。</p>

2021年5月26日 (水) 21:05時点における版



*1544年

トスカーナの医師で植物学者であるピエトロ・アンドレア・マッティオリがトマトを含む文献を出版。
黄金の林檎(Poma aurea)と名付ける。
トマトは食べれるかもしれないが現時点でそれを消費している人の記録はないと示唆。

*1548年10月31日

フィレンツェ共和国(イタリア)の銀行家で公爵であるコジモ・デ・メディチの執事がデ・メディチの個人秘書に「トマト(Pomi d'oro)のバスケットが届いた」と書き、トマトがPomi d'oroとしてイタリアで最初の名前を与えられる。
それまで、Pomi d'oroは科学者が論文でイチジク、メロン、柑橘類を指すものとして使われていた。


*1799年から1825年頃

アレッポ(シリア北部にある都市)の英国領事であるジョン・バーカーによって北アフリカと中東にトマトが紹介され栽培が導入。