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'''コンラート・ゲスナー'''(Conrad Gessner:1516年3月26日 - 1565年12月13日)は、スイスの医師、博物学者、書誌学者、言語学者,  碩学である。<br>
 
'''コンラート・ゲスナー'''(Conrad Gessner:1516年3月26日 - 1565年12月13日)は、スイスの医師、博物学者、書誌学者、言語学者,  碩学である。<br>
チューリッヒの貧しい家庭に生まれたが、父親や教師に才能を認められ、大学まで支援され、古典言語、神学、医学を学んだ。チューリッヒ市の市医となったゲスナーは、収集、研究、執筆に多くの時間を割くことができた。ゲスナーは、書誌学(Bibliotheca universalis 1545-1549)と動物学(Historia animalium 1551-1558)に関する記念碑的な著作を編纂し、49歳でペストのために亡くなったときには、植物学の大著に取り組んでいた。 彼は、近代科学書誌学、動物学、植物学の父とみなされている。1559年のチューリップのように、ヨーロッパで初めて植物や動物の種を記述したのも彼である。彼の名を冠した植物や動物も数多く存在する。
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チューリッヒの貧しい家庭に生まれたが、父親や教師に才能を認められ、大学まで支援され、古典言語、神学、医学を学んだ。チューリッヒ市の市医となったゲスナーは、収集、研究、執筆に多くの時間を割くことができた。ゲスナーは、書誌学(Bibliotheca universalis 1545年 - 1549年)と動物学(Historia animalium 1551年 - 1558年)に関する記念碑的な著作を編纂し、49歳でペストのために亡くなったときには、植物学の大著に取り組んでいた。 彼は、近代科学書誌学、動物学、植物学の父とみなされている。1559年のチューリップのように、ヨーロッパで初めて植物や動物の種を記述したのも彼である。彼の名を冠した植物や動物も数多く存在する。
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== 生涯 ==
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コンラッド・ゲスナーは、1516年3月26日、スイスのチューリッヒで、チューリッヒの貧しい毛皮商人ウルスス・ゲスナーの息子として生まれた。しかし、ゲスナーの父は彼の才能を認め、薬草の栽培と収集を生業とする大叔父のもとに預け、教育を受けさせた。ゲスナーはここで多くの植物とその薬効に親しみ、生涯にわたって自然史に興味を持つようになった。
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ゲスナーはまずチューリッヒのカロリヌムに通い、その後フラウミュンスターの神学校に入学した。15歳でアリストファネスの『プルトゥス』にペニア(貧困)役で登場するなど、古典言語を学んだ。学校では教師に感銘を受け、数人の教師が彼のスポンサーとなって進学を支援し、17歳で神学を学ぶためにフランスの大学に行くための奨学金を手配するなどした。17歳で神学を学ぶためにフランスの大学に入学し(1532 - 1533年)ブールジュ大学とパリ大学で学んだ。チューリッヒでは、カペルの戦い(1531年)で父を亡くした彼のために養父となってくれた教師、3年間の食事と宿泊を提供してくれた教師、ストラスブールの高等教育機関であるストラスブール・アカデミーへの進学を斡旋してくれた教師などがいた。彼はそこでヘブライ語を学び、古代言語の知識を深めた。1535年、宗教上の不安からチューリッヒに戻り、19歳で持参金のない貧しい家庭の女性と軽率な結婚をしてしまう。しかし、その後、(1536年)バーゼル大学で医学を学ぶための有給休暇を取得した。
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ゲスナーは生涯を通じて自然史に興味を持ち、旅行や友人や学者との幅広い文通を通じて、野生動物の標本や記述を収集した。彼の研究手法は、「観察」「解剖」「遠方への旅行」「正確な記述」という4つの要素から成り立っていた。ルネッサンス期の研究者は、古典派の作家に全面的に頼っていたので、このような観察的なアプローチは新しいものでした。彼はノーベル賞受賞の翌年、1565年12月13日に疫病で亡くなった。
  
  

2021年7月16日 (金) 20:06時点における版

コンラート・ゲスナー

コンラート・ゲスナー(Conrad Gessner:1516年3月26日 - 1565年12月13日)は、スイスの医師、博物学者、書誌学者、言語学者, 碩学である。
チューリッヒの貧しい家庭に生まれたが、父親や教師に才能を認められ、大学まで支援され、古典言語、神学、医学を学んだ。チューリッヒ市の市医となったゲスナーは、収集、研究、執筆に多くの時間を割くことができた。ゲスナーは、書誌学(Bibliotheca universalis 1545年 - 1549年)と動物学(Historia animalium 1551年 - 1558年)に関する記念碑的な著作を編纂し、49歳でペストのために亡くなったときには、植物学の大著に取り組んでいた。 彼は、近代科学書誌学、動物学、植物学の父とみなされている。1559年のチューリップのように、ヨーロッパで初めて植物や動物の種を記述したのも彼である。彼の名を冠した植物や動物も数多く存在する。

生涯

コンラッド・ゲスナーは、1516年3月26日、スイスのチューリッヒで、チューリッヒの貧しい毛皮商人ウルスス・ゲスナーの息子として生まれた。しかし、ゲスナーの父は彼の才能を認め、薬草の栽培と収集を生業とする大叔父のもとに預け、教育を受けさせた。ゲスナーはここで多くの植物とその薬効に親しみ、生涯にわたって自然史に興味を持つようになった。

ゲスナーはまずチューリッヒのカロリヌムに通い、その後フラウミュンスターの神学校に入学した。15歳でアリストファネスの『プルトゥス』にペニア(貧困)役で登場するなど、古典言語を学んだ。学校では教師に感銘を受け、数人の教師が彼のスポンサーとなって進学を支援し、17歳で神学を学ぶためにフランスの大学に行くための奨学金を手配するなどした。17歳で神学を学ぶためにフランスの大学に入学し(1532 - 1533年)ブールジュ大学とパリ大学で学んだ。チューリッヒでは、カペルの戦い(1531年)で父を亡くした彼のために養父となってくれた教師、3年間の食事と宿泊を提供してくれた教師、ストラスブールの高等教育機関であるストラスブール・アカデミーへの進学を斡旋してくれた教師などがいた。彼はそこでヘブライ語を学び、古代言語の知識を深めた。1535年、宗教上の不安からチューリッヒに戻り、19歳で持参金のない貧しい家庭の女性と軽率な結婚をしてしまう。しかし、その後、(1536年)バーゼル大学で医学を学ぶための有給休暇を取得した。

ゲスナーは生涯を通じて自然史に興味を持ち、旅行や友人や学者との幅広い文通を通じて、野生動物の標本や記述を収集した。彼の研究手法は、「観察」「解剖」「遠方への旅行」「正確な記述」という4つの要素から成り立っていた。ルネッサンス期の研究者は、古典派の作家に全面的に頼っていたので、このような観察的なアプローチは新しいものでした。彼はノーベル賞受賞の翌年、1565年12月13日に疫病で亡くなった。