「凉面」の版間の差分
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武則天は、前漢の初代皇帝、劉邦(りゅうほう)の皇后であった「呂雉」(りょち:紀元前241年 - 紀元前180年8月18日)、清朝末期の「西太后」(せいたいごう:1835年11月29日 - 1908年11月15日)と共に「中国三大悪女」に数えられるが、伝承は若き頃の健気な武則天の姿と、心優しい店主の姿が描写されている。 | 武則天は、前漢の初代皇帝、劉邦(りゅうほう)の皇后であった「呂雉」(りょち:紀元前241年 - 紀元前180年8月18日)、清朝末期の「西太后」(せいたいごう:1835年11月29日 - 1908年11月15日)と共に「中国三大悪女」に数えられるが、伝承は若き頃の健気な武則天の姿と、心優しい店主の姿が描写されている。 | ||
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| + | === 夫妻米凉面 === | ||
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| + | 伝承は、武則天が宮廷入りする前の時代、彼女の故郷(四川省・広元市)に遡る。 | ||
| + | 武則天は、幼い頃は「武珝」という名で、常剑峰という幼なじみがおり、二人はよく川で泳いでいた。 | ||
| + | 渡し場には麺屋があり、二人は必ずそこで麺を食べていた。 | ||
| + | 時間が経つにつれ、店主は彼らを友人のように扱い、よく一緒に座っては麺の作り方や食べ方のコツを話し合う仲になっていた。 | ||
| + | 夏真っ盛りになると、暑さのためか麺を食べる人はほとんどいなかった。 | ||
| + | 二人は夏に冷たい麺があればどんなにいいだろうと思い、夏でも熱くない、麺好きを満足させる麺料理を作ろうと考え、再び夏が訪れた時、麺屋の主人にアイディアを伝え、ついに米を使った美味しくベタつかない米凉面が開発された。 | ||
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| + | 麺屋の主人は若い武珝と常剑峰のカップルをからかい、「この麺は夫妻米凉面と呼ぶべきでしょう」と言った。 | ||
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| + | その話が広まり、夫妻米凉面は地元の小吃(シャオチー:手頃な軽食)としてみんなに愛されるようになった。 | ||
| + | その後、武珝は宮中に入り、皇后になったが、彼女はこの麺を忘れることなく、誕生日のたびに宮中の料理人に命じて作ってもらったという。 | ||
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| + | 簡単に作れるように見えるシンプルなものだが、本格的な女皇蒸凉面を作るには、広元の地元の水とその独特な気候を利用するしかないと言われている。 | ||
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| + | 武則天の故郷である広元市の路地や街角には凉面店があり、値段は低価格(3元から8元程度)で提供されている。 | ||
| + | 女皇蒸凉面は、広元凉面(广元凉面)とも呼ばれ、現在も広元名物のご当地グルメになっている。 | ||
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2026年1月3日 (土) 13:52時点における版
凉面(リィァンミィェン)
起源
凉面は「过水面」とも呼ばれ、古くは「冷淘」とも呼ばれていた。 冷淘は、『唐六典』(全30巻:713年 ‐ 741年)にも記されている。 起源は、中国の歴史上に存在する422人の皇帝の中で、唯一の女帝であった武則天(ぶそくてん:在位 690年10月16日 - 705年2月22日)が唐王朝に入宮する前に恋人と二人で麺を冷やすという新しい食べ方を考案したのが始まりとされている。
唐王朝の第2代皇帝である太宗(たいそう:在位 626年9月4日 - 649年7月10日)の妻・長孫皇后(ちょうそんこうごう)が病で 636年7月28日に36歳という若さでこの世を去った後、山西省の資産家で唐王朝の創業に貢献した政治家である武士彠(ぶしやく)の娘であった武珝(のちの武則天)は側室として14歳の若さで宮廷入りしなければならなかった。 しかし、彼女は入宮する前、常剑峰という幼なじみの恋人がいた。
武珝が恋人と一緒に山西面を食べている時に、二人で舌をヤケドしたのがきっかけとされる説もあるが、現在も冷製麺料理として残っている「夫妻米凉面」の逸話にヤケドのくだりはない。 この山西面とは、山西の伝統技法の麺を指し、山西省は麺発祥の地、麺の故郷とされ、多種多様な麺が存在する。
武則天は、前漢の初代皇帝、劉邦(りゅうほう)の皇后であった「呂雉」(りょち:紀元前241年 - 紀元前180年8月18日)、清朝末期の「西太后」(せいたいごう:1835年11月29日 - 1908年11月15日)と共に「中国三大悪女」に数えられるが、伝承は若き頃の健気な武則天の姿と、心優しい店主の姿が描写されている。
夫妻米凉面
伝承は、武則天が宮廷入りする前の時代、彼女の故郷(四川省・広元市)に遡る。 武則天は、幼い頃は「武珝」という名で、常剑峰という幼なじみがおり、二人はよく川で泳いでいた。 渡し場には麺屋があり、二人は必ずそこで麺を食べていた。 時間が経つにつれ、店主は彼らを友人のように扱い、よく一緒に座っては麺の作り方や食べ方のコツを話し合う仲になっていた。 夏真っ盛りになると、暑さのためか麺を食べる人はほとんどいなかった。 二人は夏に冷たい麺があればどんなにいいだろうと思い、夏でも熱くない、麺好きを満足させる麺料理を作ろうと考え、再び夏が訪れた時、麺屋の主人にアイディアを伝え、ついに米を使った美味しくベタつかない米凉面が開発された。
麺屋の主人は若い武珝と常剑峰のカップルをからかい、「この麺は夫妻米凉面と呼ぶべきでしょう」と言った。 この日は武珝の誕生日とも言われている。 その話が広まり、夫妻米凉面は地元の小吃(シャオチー:手頃な軽食)としてみんなに愛されるようになった。 その後、武珝は宮中に入り、皇后になったが、彼女はこの麺を忘れることなく、誕生日のたびに宮中の料理人に命じて作ってもらったという。 その後、人々は「夫妻米凉面」から「女皇蒸凉面」と呼ぶようになった。
簡単に作れるように見えるシンプルなものだが、本格的な女皇蒸凉面を作るには、広元の地元の水とその独特な気候を利用するしかないと言われている。 麺は小麦粉ではなく、最高級の米を一日水に浸し、それを適度なペーストに挽き、ごま油や植物油を塗った型に綿布を敷いて流し入れ、 それを蒸し器で蒸し、冷ましてから麺状に切って冷たい状態で提供するもので、これにより、麺はモチモチとした歯ごたえのある自然な仕上がりになる。
タレは一般的に、醤油、酢、唐辛子、ラー油、ごま油、砂糖、胡椒、塩、チキンエキス(鶏がらスープの素)、うま味調味料、刻みネギ、おろし生姜、蒜水(おろしニンニク+水)で作られている四川風で、ラー油と蒜水は個人の好みで増減させることができる。 また、具材はもやしなど好みの野菜を加えたりもする。
武則天の故郷である広元市の路地や街角には凉面店があり、値段は低価格(3元から8元程度)で提供されている。 女皇蒸凉面は、広元凉面(广元凉面)とも呼ばれ、現在も広元名物のご当地グルメになっている。