「グリーンタートルスープ」の版間の差分

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その準備に参加しない限り、カメ料理を口にすることは出来ない。
 
その準備に参加しない限り、カメ料理を口にすることは出来ない。
 
これは初期のメンバーであったジョン・ジェイ、アレクサンダー・ハミルトン、アーロン・バーによって制定されたといわれている。
 
これは初期のメンバーであったジョン・ジェイ、アレクサンダー・ハミルトン、アーロン・バーによって制定されたといわれている。
この規則によって食事の準備には、のちの米国大統領や建国の父も平等に参加していただろう。
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この規則によって食事の準備には、米国大統領や建国の父も平等に参加していただろう。
  
 
当初、この規則はクラブのステータス性や団結性、カメ料理という貴重性、食前の礼儀や精神を高める上でも重要なものであったと考えられる。
 
当初、この規則はクラブのステータス性や団結性、カメ料理という貴重性、食前の礼儀や精神を高める上でも重要なものであったと考えられる。

2023年8月11日 (金) 15:55時点における版

タートルスープ

タートルスープ(Turtle Soup)は、アメリカ合衆国ニュージャージー州ハドソン郡に位置するホーボーケンで創設された社交クラブ「ホーボーケン・タートル・クラブ」のメンバーらで食されていたカメ料理である。

ホーボーケン・タートル・クラブ

甲羅の看板

1796年、ニュージャージー州で政治家や文学者などから成る会員制の美食クラブ「ホーボーケン・タートル・クラブ」がジョン・スティーブンス大佐によって創設された。

このクラブは米国最古の社交クラブであり、初期の会員は初代アメリカ大統領ジョージ・ワシントン、第3代アメリカ大統領トーマス・ジェファーソン、アメリカ合衆国建国の父と称されるアレクサンダー・ハミルトン、ジョン・ジェイ、ベンジャミン・フランクリン、他にはアレクサンダー・ハミルトンとの決闘で有名なアーロン・バーなど錚々たるメンバーであった。

モットーは、ラテン語で「Dum Vivimus Vivamus」(和訳:私たちが生きている間は、めいっぱい生きよう)。 英訳の “ AS WE JOURNEY THROUGH LIFE, LET US LIVE BY THE WAY. ”(人生を旅するとき、私たちは道に従って生きよう)という文字がクラブの象徴である巨大なカメの甲羅の看板に刻印された。

同クラブは19世紀後半にホーボーケンからニューヨークに移転し、1930年代後半までに解散した。

歴史

起源

ジョン・スティーブンス
チケット(1824年6月)

ホーボーケン・タートル・クラブの発起人は、ジョージ・ワシントン率いる大陸軍の元大尉であるジョン・スティーブンス大佐(Col. John Stevens, III:1749年 - 1838年3月6日)である。 彼はニュージャージー州の発明家、弁護士、財務官でもあり、抜け目のない不動産投資、遠洋航行が可能なスクリュー駆動の蒸気船の発明、そして非常に裕福な良家との結婚を通じて富を築いた。 1850年代に建てられたスティーブンス城とよばれた屋敷は1959年に取り壊され、現在はスティーブンス工科大学のキャンパスとなっている。

クラブを創設する発端となったのは、彼を悩ます唯一の問題であった。 スティーブンス自身は数々の功績や富により、不自由な生活に起因する悩みはなかった。 しかし、その彼を悩ませたのは、ヨーロッパから輸入してハドソン川のほとりで放し飼いで飼育していた貴重な鶏たちが次々と姿を消していったことである。 この犯人は密猟者によるものと考え、地元の羊飼いの少年たちを雇い、川岸の調査を行った。 ピクニック気分の少年らは役に立たなかったが、彼らと鶏の生存を確認すべく、ハドソン川へ下りたとき、そこで思いがけぬ光景を目の当たりにしたという。

この出来事はクラブの歴史の一部としてニューヨーク・タイムスに掲載された。

“ コケで完全に覆われた丸い甲羅の巨大なカメが川から這い出てきて、無防備な鶏の足を悪逆非道につかみ、川底の隠れ家へと引きずり込んだ。 ”

ニューヨーク・タイムズ(1878年)

スティーブンスは、密漁犯が明らかになったことで「卑劣な冷血爬虫類」と称し、カメに宣戦布告したとされる。 “ 宣戦布告 ”という物騒で穏やかでない表現は誇張されたものであり、これは彼が軍人であったこと、人物像が風変わりでマッド・サイエンティストとされていることが影響しているが、実際には凡人では到底発明できないアイディアの持ち主であったことを含めなければならない。 これは無邪気な少年心にも似た “ カメ退治 ” という表現が相応しい。 彼はマンハッタンの裕福な友人グループを集めてハドソン川でカメ退治にのりだし、それぞれで自分の捕まえたカメの喉を切ったという。 これらのカメを料理した宴は数日間にわたって続けられた。 そして、この宴は瞬く間にクラブとなったのである。

その後、年月と共にクラブへの入会は最も切望されるステータス性の高い会員権の一つとなっていった。

活動

クラブのメダル

1878年
クラブのメンバーたちは恒例のカメの宴会をニューヨーク市マンハッタンにあるタマニー・ホール(民主党およびニューヨーク市政の主要な政治団体の機関施設)へ移すことを投票によって決定した。 入口にはクラブ名が刻印された巨大なカメの甲羅がバルコニーから吊るされた。

タイムズ紙は、クラブを「ウォール街と財務省の間に存在する最も重々しい堅実な男たちの集まりのひとつ」と評した。

1892年
クラブ名をニューヨーク・タートル・クラブ、またはマンハッタン・タートル・クラブへ改称したとされるが、その後の移転先で撮影された写真ではクラブ名は変わっていないことが確認できる。 よって略名の可能性が高い。

キングスブリッジ移転後のクラブ(1890年代後半)右はホテル

1893年
同年6月、クラブの古株で退役軍人であったウィリアム・スパーブはクラブ存続のために、かつてハイアッツ・タバーン(アメリカ独立革命時代から続く重要な酒場)となっていたニューヨーク市ブロンクス地区のキングスブリッジ・ホテルを購入した。 ハイアッツ・タバーンは、1789年にジョージ・ワシントンがコネチカットへ向かう途中で食事をしたといわれている。

ファイル:Hoboken Turtle Club - Club Members, Yonkers NY Statesman, Sept, 20, 1895.png
ヨンカーズ・ニューヨーク・ステーツマン紙(1895年9月20日)

1896年
クラブ創立100周年記念の演説で、当時の会長ウィリアム・ズルツァー(ニューヨーク市長)は、ジョージ・ワシントン、トーマス・ジェファーソン、ベンジャミン・フランクリン、アーロン・バー、ヘンリー・クレイなどがクラブのメンバーであったと述べた。

1903年
同年10月27日、キングスブリッジ地域を襲った大火災により多くの建物が焼失し、キングスブリッジ・ホテルもその一つであった。 クラブは活動拠点を失った。

1938年
同年までに、クラブはマンハッタンのターミナル・ホテルのラススケラーで会合を開くようになり、その入口の扉の上には「この地下室に入ると、いいやつに出会える」(When you enter this cellar, you meet a good feller)という看板が掲げられていた。 その後、まもなくしてクラブは消滅・解散した。

規則

クラブのエンブレムピン

クラブの規則によれば、すべてのメンバーは単に食事をするだけではなく、食事の準備に参加・協力する義務があった。 その準備に参加しない限り、カメ料理を口にすることは出来ない。 これは初期のメンバーであったジョン・ジェイ、アレクサンダー・ハミルトン、アーロン・バーによって制定されたといわれている。 この規則によって食事の準備には、米国大統領や建国の父も平等に参加していただろう。

当初、この規則はクラブのステータス性や団結性、カメ料理という貴重性、食前の礼儀や精神を高める上でも重要なものであったと考えられる。 しかし、それ以後のメンバーたちは入会する以前、もしくは入会後に世間的に著名な地位を持つような人々も多かったことから、個人的に美酒や美食に興じることも可能であったため、入会当時の初心を忘れ、クラブの会食に参加するのも次第に煩わしくなっていった。 崇高な規則はやがて形式的になり、ステータス性は徐々に失われ、1890年代までに会員数が激減し、クラブは苦境に陥った。 その後はクラブ自体やカメ料理を愛する生粋のメンバーで存続した。 クラブの存続に奔走し、1893年にキングスブリッジ・ホテルを購入したウィリアム・スパーブがその一人である。

食事

『ホーボーケン・タートル・クラブの夕食前のパンチ』新聞(フランク・レスリー画)1889年9月7日

朝食
午前8時、カクテルに始まり、ウナギの煮込み、ウナギのフライ、オキスズキの焼き魚やフライ、ポーターハウスステーキ、カメのステーキなどが供された。

キングスブリッジ・ホテルのバーテンダーは、メンバーたちは朝食前にカクテルを10杯飲むことは珍しくなかったが、退役軍人はカクテルをピッチャーで飲むため、その量を測定するのは難しいと語っている。

夕食
午後4時、パンチに始まり、ゆで卵、ブランデー、そして中心はクラブの名物料理であるカメのスープだった。

カメの味は一般的に知られるところではなかった。 クラブのメンバーであり、北極探検家で知られるアイザック・イズラエル・ヘイズは、その味をアザラシのレバーやセイウチのベーコンのフライに喩えている。

流儀と哲学

『ホーボーケン・タートル・クラブとの一日』新聞(フランク・レスリー画)1886年7月17日

“ カメのスープをいただくには、まず、ゆで卵を皿の底で細かく刻む。
次に、卵にレモン半分の果汁を絞り入れ、瓶に入った芳醇なオタール・ブランデーをティースプーンへ一杯注ぐ。
これで同時に飲み物が提供されます。
卵は皿を整えるため、飲み物は胃を整えるためです。
それから皿にスープを満たし、卵が底から表面に浮かび上がってくる間に、あなたはすべての世俗的な考えを捨て、すべての敵を許し、すべての債権を忘れて、ティースプーン一杯のスープを口に入れる。
それからスプーンを取り去り、目を閉じると、あなたの魂は、官能的な思考の翼に乗って、蓮華の国へと、その外へと通り過ぎていく。
しばらくの間、あなたはあまりにも静かで、あまりにも完璧で、あまりにもすべてを吸い込むような夢の中へ迷い込み、のんびりと、そして悲しげに、それが終わらないことを願う。
しかし、スープを飲み込んで目を開けると、自然の景色が変わっていないことに気づく。
そして、あなたの知性が再び力を取り戻したとき、カメは白鳥と同様に、その死において唯一の完璧な交響曲を奏でるのだと結論付けるのです。 ”

秘密のレシピ

スープを盛る様子

19世紀末、ジョン・ターベルがカメスープの調理を担当した。 彼のウミガメスープは絶賛され、フランスのラファイエット侯爵が訪米した際に依頼するほどであった。 1878年、ターベルは記者に秘密を明かし、以下を語った。

“ これは最高のカメのスープだが、カメはあまり入っていないんだ。もし1,500匹のカメで6匹のカメよりも美味しいスープができるなら1,500匹を使うだろう。しかし、そうはならない。とても濃厚で誰もカップ一杯も食べられないだろう。 ”

彼のレシピは、カメ肉の他、ジャガイモ、カブ、キャベツ、ラディッシュ、エンドウ豆、ビート、トマト、キュウリ、カリフラワーといった野菜で構成されていた。

沿革

クラブのイラストが入ったユーティリティボックス(ニュージャージー州・ホーボーケン)
  • 1796年:ニュージャージー州ハドソン郡ホーボーケンでジョン・スティーブンスにより設立。
  • 1804年:7月11日、同クラブ会員のアレクサンダー・ハミルトンとアーロン・バーがニュージャージー州ウィーホーケンで決闘を行い、ハミルトンが銃弾により翌日死去。
  • 1878年:クラブの会合はニューヨークのタマニー・ホールで主催するようになった。
  • 1893年:6月、クラブの本拠地を移すため、ニューヨークのキングスブリッジ・ホテルを購入。
  • 1896年:クラブ創立100周年記念の演説で当時の会長ウィリアム・ズルツァーは過去の錚々たる会員を明かした。
  • 1903年:10月27日、キングスブリッジ地域を襲った大火災により拠点であったホテルが焼失。
  • 1938年:クラブの会合はマンハッタンのターミナル・ホテルのラススケラーで主催するようになった。まもなくしてクラブは消滅・解散した。

関連項目