「フランシスコ・ロペス・デ・ゴマラ」の版間の差分
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[[ファイル:Francisco López de Gómara.png|190px|right|thumb|フランシスコ・ロペス・デ・ゴマラ]] | [[ファイル:Francisco López de Gómara.png|190px|right|thumb|フランシスコ・ロペス・デ・ゴマラ]] | ||
− | '''フランシスコ・ロペス・デ・ゴマラ'''(Francisco López de Gómara:1511年2月2日 - 1566年頃)は、セビリアで活躍したスペインの歴史家で、特に16世紀初頭に[[エルナン・コルテス]] | + | '''フランシスコ・ロペス・デ・ゴマラ'''(Francisco López de Gómara:1511年2月2日 - 1566年頃)は、セビリアで活躍したスペインの歴史家で、特に16世紀初頭に[[エルナン・コルテス]]が行ったスペインの新大陸征服のための遠征を描いた作品で有名である。<br> |
+ | ゴマラ自身はコルテスに同行せず、実際にアメリカ大陸に行ったこともなかったが、コルテスをはじめとする帰国した征服者たちの話を直接聞いたことが、彼の記述の根拠となっている。しかし、[[ベルナル・ディアス・デル・カスティリョ]]をはじめとする同時代の作家たちは、彼の著作には不正確な点が多く、出来事を不当に美化し、コルテスの役割を誇張していると批判した。このように、彼の作品の信頼性は疑問視されているが、この出来事の貴重な記録として、しばしば引用されている。 | ||
== 生涯 == | == 生涯 == | ||
+ | [[ファイル:Sculpture of Francisco López de Gómara by Federico Coullaut-Valera in Soria, Spain.png|190px|right|thumb|フランシスコ・ロペス・デ・ゴマラの彫像(スペイン・ソリア)Federico Coullaut-Valera作]] | ||
1511年2月2日にゴマラで生まれた。アルカラ・デ・エナレスで学び、後に司祭に叙任される。1530年代はイタリアに滞在し、スペイン大使のディエゴ・ウルタド・デ・メンドーサに仕えた。1540年にイタリアから帰国し、エルナン・コルテスに秘書兼チャプレンとして仕えた。 | 1511年2月2日にゴマラで生まれた。アルカラ・デ・エナレスで学び、後に司祭に叙任される。1530年代はイタリアに滞在し、スペイン大使のディエゴ・ウルタド・デ・メンドーサに仕えた。1540年にイタリアから帰国し、エルナン・コルテスに秘書兼チャプレンとして仕えた。 | ||
コルテスのアルジェリア遠征に同行し、パトロンの死後、1556年または1557年にバジャドリッドにいたことが知られているが、その後、生まれ故郷のセビリアに戻り、そこで亡くなったと思われる。 | コルテスのアルジェリア遠征に同行し、パトロンの死後、1556年または1557年にバジャドリッドにいたことが知られているが、その後、生まれ故郷のセビリアに戻り、そこで亡くなったと思われる。 | ||
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+ | [[ファイル:1552 edition of the Historia general de las Indias.png|190px|right|thumb|ハプスブルク家チャールズ5世の紋章が全面にデザインされた『Historia general de las Indias』1552年版]] | ||
征服者や新世界から戻ってきた人々(彼自身はゴンサロ・デ・タピアとゴンサロ・デ・ウンブリアを挙げている)から得た情報をもとに、彼は『Historia general de las Indias』を執筆し、1552年にサラゴサで出版した。マルティン・フュメがフランス語に翻訳して1578年にパリで出版し、アウグスティン・グラヴァリスがイタリア語に翻訳して1560年にヴェネツィアで出版し、最後にフアン・バウティスタ・デ・サン・アントン・チマルパン・クアウトレフアニッツィンがナワトル語に翻訳したものである。著者は、「ローマ皇帝、スペイン王、インド諸島と新世界の領主、ドン・カルロスへ」と捧げられた第1部では、アンティル諸島、ペルー(ペドロ・デ・ラ・ガスカによる平定まで)、チリ、中米の発見と征服、マゼランの航海とモルッカ諸島の発見について述べている。第2部では、メキシコの征服について書かれており、「偉大なるコルテス卿、マルケス・デル・バジェに」と捧げられています。 | 征服者や新世界から戻ってきた人々(彼自身はゴンサロ・デ・タピアとゴンサロ・デ・ウンブリアを挙げている)から得た情報をもとに、彼は『Historia general de las Indias』を執筆し、1552年にサラゴサで出版した。マルティン・フュメがフランス語に翻訳して1578年にパリで出版し、アウグスティン・グラヴァリスがイタリア語に翻訳して1560年にヴェネツィアで出版し、最後にフアン・バウティスタ・デ・サン・アントン・チマルパン・クアウトレフアニッツィンがナワトル語に翻訳したものである。著者は、「ローマ皇帝、スペイン王、インド諸島と新世界の領主、ドン・カルロスへ」と捧げられた第1部では、アンティル諸島、ペルー(ペドロ・デ・ラ・ガスカによる平定まで)、チリ、中米の発見と征服、マゼランの航海とモルッカ諸島の発見について述べている。第2部では、メキシコの征服について書かれており、「偉大なるコルテス卿、マルケス・デル・バジェに」と捧げられています。 | ||
− | ゴマラは、自分の名誉を高めようとしたのか、あるいはアメリカに行ったことのないコルテスから得た生の情報に頼ったのか、あるいは悪意があったのか、あるいは他の理由があったのか、重大な誤りを犯し、多くの場合、歴史的真実に対して重大な罪を犯していた。そのためか、フィリップ王子(後のスペインの[[フェリペ2世|フィリップ2世]])は、1553年11月17日にバリャドリッドで発布した法令で、ゴマラの著作物のコピーをすべて集めるように命じ、それを再版した者には20万マラベディの罰則を課した。この禁止令は、1727年にアンドレアス・ゴンザレス・マルシャルの努力によって解除され、彼はゴマラの著作を新世界の初期の歴史家のコレクション(Coleccion de historiadores primitivos de las Indias | + | ゴマラは、自分の名誉を高めようとしたのか、あるいはアメリカに行ったことのないコルテスから得た生の情報に頼ったのか、あるいは悪意があったのか、あるいは他の理由があったのか、重大な誤りを犯し、多くの場合、歴史的真実に対して重大な罪を犯していた。そのためか、フィリップ王子(後のスペインの[[フェリペ2世|フィリップ2世]])は、1553年11月17日にバリャドリッドで発布した法令で、ゴマラの著作物のコピーをすべて集めるように命じ、それを再版した者には20万マラベディの罰則を課した。この禁止令は、1727年にアンドレアス・ゴンザレス・マルシャルの努力によって解除され、彼はゴマラの著作を新世界の初期の歴史家のコレクション(Coleccion de historiadores primitivos de las Indias Occidentales)に収録した。[[エルナン・コルテス]]の仲間であった[[ベルナル・ディアス・デル・カスティリョ]]の『新スペイン征服史』(Verdadera historia de la Conquesta de Nueva Espana)は、ゴマラに反論するために書かれたものである。ベルナル・ディアス・デル・カスティリョの文体は簡潔で好感が持て、物語は迅速かつ優美に進行する。彼の作品で未発表のものには、Batallas de mar de nuestros tiempos(現代の海戦)、Historia de Harrue y Harradin Barbarroja(ハルーエの歴史とハーラディン・バルバロッサ)などがある。 |
== 著書 == | == 著書 == | ||
− | + | 彼は新世界には行かなかったが、その征服について言及した多くの作品を書いています。 | |
* ''Historia general de las Indias'' | * ''Historia general de las Indias'' | ||
* ''Historia de la conquista de México'' | * ''Historia de la conquista de México'' |
2021年8月14日 (土) 09:03時点における最新版
フランシスコ・ロペス・デ・ゴマラ(Francisco López de Gómara:1511年2月2日 - 1566年頃)は、セビリアで活躍したスペインの歴史家で、特に16世紀初頭にエルナン・コルテスが行ったスペインの新大陸征服のための遠征を描いた作品で有名である。
ゴマラ自身はコルテスに同行せず、実際にアメリカ大陸に行ったこともなかったが、コルテスをはじめとする帰国した征服者たちの話を直接聞いたことが、彼の記述の根拠となっている。しかし、ベルナル・ディアス・デル・カスティリョをはじめとする同時代の作家たちは、彼の著作には不正確な点が多く、出来事を不当に美化し、コルテスの役割を誇張していると批判した。このように、彼の作品の信頼性は疑問視されているが、この出来事の貴重な記録として、しばしば引用されている。
生涯
1511年2月2日にゴマラで生まれた。アルカラ・デ・エナレスで学び、後に司祭に叙任される。1530年代はイタリアに滞在し、スペイン大使のディエゴ・ウルタド・デ・メンドーサに仕えた。1540年にイタリアから帰国し、エルナン・コルテスに秘書兼チャプレンとして仕えた。
コルテスのアルジェリア遠征に同行し、パトロンの死後、1556年または1557年にバジャドリッドにいたことが知られているが、その後、生まれ故郷のセビリアに戻り、そこで亡くなったと思われる。
執筆
征服者や新世界から戻ってきた人々(彼自身はゴンサロ・デ・タピアとゴンサロ・デ・ウンブリアを挙げている)から得た情報をもとに、彼は『Historia general de las Indias』を執筆し、1552年にサラゴサで出版した。マルティン・フュメがフランス語に翻訳して1578年にパリで出版し、アウグスティン・グラヴァリスがイタリア語に翻訳して1560年にヴェネツィアで出版し、最後にフアン・バウティスタ・デ・サン・アントン・チマルパン・クアウトレフアニッツィンがナワトル語に翻訳したものである。著者は、「ローマ皇帝、スペイン王、インド諸島と新世界の領主、ドン・カルロスへ」と捧げられた第1部では、アンティル諸島、ペルー(ペドロ・デ・ラ・ガスカによる平定まで)、チリ、中米の発見と征服、マゼランの航海とモルッカ諸島の発見について述べている。第2部では、メキシコの征服について書かれており、「偉大なるコルテス卿、マルケス・デル・バジェに」と捧げられています。
ゴマラは、自分の名誉を高めようとしたのか、あるいはアメリカに行ったことのないコルテスから得た生の情報に頼ったのか、あるいは悪意があったのか、あるいは他の理由があったのか、重大な誤りを犯し、多くの場合、歴史的真実に対して重大な罪を犯していた。そのためか、フィリップ王子(後のスペインのフィリップ2世)は、1553年11月17日にバリャドリッドで発布した法令で、ゴマラの著作物のコピーをすべて集めるように命じ、それを再版した者には20万マラベディの罰則を課した。この禁止令は、1727年にアンドレアス・ゴンザレス・マルシャルの努力によって解除され、彼はゴマラの著作を新世界の初期の歴史家のコレクション(Coleccion de historiadores primitivos de las Indias Occidentales)に収録した。エルナン・コルテスの仲間であったベルナル・ディアス・デル・カスティリョの『新スペイン征服史』(Verdadera historia de la Conquesta de Nueva Espana)は、ゴマラに反論するために書かれたものである。ベルナル・ディアス・デル・カスティリョの文体は簡潔で好感が持て、物語は迅速かつ優美に進行する。彼の作品で未発表のものには、Batallas de mar de nuestros tiempos(現代の海戦)、Historia de Harrue y Harradin Barbarroja(ハルーエの歴史とハーラディン・バルバロッサ)などがある。
著書
彼は新世界には行かなかったが、その征服について言及した多くの作品を書いています。
- Historia general de las Indias
- Historia de la conquista de México
- Crónica de los corsarios Barbarrojas
- Anales de Carlos V
- Vida de Hernán Cortés.
- la conquista de México
関連項目
- Historia general de las Indias