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+ | その後、フェルディナンド1世はマッティオリを次男フェルディナンド大公の主治医としてプラハに呼び寄せた。マッティオリには、そのような名声と成功があった。しかし、旅立つ前に、ゴリツィアの住民たちは、尊敬と愛情の証として、彼の絵の多くに見られる貴重な金の鎖を贈ることにした。1555年、マッティオリはプラハに移ったが、その翌年にはすでに、トルコとの戦いでハンガリーにいるフェルディナント大公に、自分自身にもかかわらず同行せざるを得なくなっていた。 | ||
+ | 1557年には、ゴリツィア出身の貴族ジローラマ・ディ・ヴァルモと結婚し、1562年にフェルディナンド、1568年にマクシミリアンという2人の息子をもうけた。1562年7月13日、マッティオリはフェルディナンドから神聖ローマ帝国の高等参事官兼貴族に任命された。1564年にフェルディナンドが亡くなったとき、マクシミリアン2世が即位したばかりだった。マッティオリはしばらくの間、新君主に仕えていたが、1571年にトレントに永住することを決意したのである。その2年前、彼はトレント出身の女性、スザンナ・カエルビーナと3度目の結婚をしていた。 | ||
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+ | 植物学者のロバート・ブラウンがマッティオリに敬意を表して命名したマッティオリ属の植物。 | ||
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2021年7月12日 (月) 21:51時点における版
ピエトロ・マッティオリ(Pietro Andrea Gregorio Mattioli:1501年3月12日 - 1577年)は、イタリアの人文主義者、医師、植物学者である。
その後、フェルディナンド1世はマッティオリを次男フェルディナンド大公の主治医としてプラハに呼び寄せた。マッティオリには、そのような名声と成功があった。しかし、旅立つ前に、ゴリツィアの住民たちは、尊敬と愛情の証として、彼の絵の多くに見られる貴重な金の鎖を贈ることにした。1555年、マッティオリはプラハに移ったが、その翌年にはすでに、トルコとの戦いでハンガリーにいるフェルディナント大公に、自分自身にもかかわらず同行せざるを得なくなっていた。
1557年には、ゴリツィア出身の貴族ジローラマ・ディ・ヴァルモと結婚し、1562年にフェルディナンド、1568年にマクシミリアンという2人の息子をもうけた。1562年7月13日、マッティオリはフェルディナンドから神聖ローマ帝国の高等参事官兼貴族に任命された。1564年にフェルディナンドが亡くなったとき、マクシミリアン2世が即位したばかりだった。マッティオリはしばらくの間、新君主に仕えていたが、1571年にトレントに永住することを決意したのである。その2年前、彼はトレント出身の女性、スザンナ・カエルビーナと3度目の結婚をしていた。
1578年(1577年ab incarnatione)ピエトロ・アンドレア・マッティオリは、1月か2月にトレントでペストで死んだ。息子のフェルディナンドとマッシミリアーノは、アルキエイター、トレント評議会の医師、そして王子・司教のベルナルド・クレシオの役割を果たしたことに感謝して、市内の大聖堂に壮大な葬儀の記念碑を奉納し現在も残っている。
植物学者のロバート・ブラウンがマッティオリに敬意を表して命名したマッティオリ属の植物。